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5.しんらい
筋肉をつける。
それは誰しも、特に男であれば一度はときめきを覚える言葉ではないだろうか。若気の至りでダンベルやハンドグリップ、腹筋ローラーを買ったことがあるひとは決して少なくないはずだ。
もっとも、運動部でもない限りほとんどの場合それらは三日坊主で部屋の隅に転がる障害物に成り下がり、そこそこ活用されたとしてもそれで鍛えられた肉体はせいぜい喧嘩の道具にでもされるのが関の山だ。
筋肉をつける。
一言で表現するならそれだけの話ではあるのだが、それを思春期にありがちな瞬発的憧れと散らすことなく、尋常を越えて強靭に編み上げ己を引き絞り刻み付ける行為に愉しみを覚えてしまった者もまた、わずかなりとも存在している。
それに魅入られた彼らはもはや筋肉を“つける”のではなく“つくる”のだ。
骨格という土台に粘土細工のように、あるいは彫刻のように、盛り付け、削り取り、磨き上げる作業に没頭する。己という血の通った素材を加工して自己実現を目指す修道者。
ひとは彼らをボディービルダーと呼ぶ。
そしてなにを隠そう、僕もそのひとりだ。
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筋肉をつくる。とりわけ美しく仕上げるには増量期と減量期のコントロールが欠かせない。
まずはたっぷりと盛り付け、それを美しく削ぎ落す。無差別に盛り付けるばかりの行いを僕らはビルドとは呼ばない。
今回の増量は大成功だった。想定していたよりは脂肪も少し多めについてしまったが、それを差し引いてもたっぷりとバルクアップされた筋肉の迫力は我ながら素晴らしい仕上がりだ。
しかし百里を行く者は九十を半ばとすと言う。ただカロリーとトレーニングをほしいままにし盛り付けただけの筋肉ではボディービルドの半ばにも及ばない。
育ったそれぞれの筋肉を生かし輝かせるにはダイヤモンドの如くにカット出しが欠かせない。
そのためにも筋肉と共に積み上がった脂肪を減らす。減量期には有酸素運動が有効だ。
ウォーキング、ランニング、縄跳び、気軽に利用できる施設にプールがあるならスイミングも良いだろう。ちなみに僕はウォーキングが好きだ。
けれどもウォーキングは単調かつ長時間に渡る運動。ただそれだけを行い続けるというのはなかなかに難しい。毎回大会のVTRで他の選手のポージングを勉強したり映画を観たりすることもあったけれども……。
そう思いながら着替えてトレーニングルームへの扉を開けると、しかしそこは僕の知る空間ではなかった。
「これは……本、棚?」
薄明りを感じる光源のわからない回廊、その両側にはずらりと本棚が並んでいる。びっしりと本の詰まったそれは目を凝らしても判然としないほどで明らかにマンションの構造をまったく無視した高さ、眼前の奥行きも暗がりに消えてしまいどれだけあるのかわからない。
そこに収まっているモノはどれも見たことがあるような、無いような、文字も読めるような、読めないような……そう、まるで夢のなかにいるかのように認識することが出来なかった。
元々好奇心の強いほうだからというのもあるが、ちょうどそれについて考えていた所為もあり、僕は躊躇なく踏み込んで扉を閉めた。暑くもなく寒くもない完璧な空調だ。書籍の保存に相当気を使っているのだろう。
ともあれ虎穴に入らずんば虎子を得ずとも言うし、少々不躾かなと思いながらも足を進め始めると奥の暗がりからも足音が響いてきた。
「やあやあお客さ……」
現れたのはシックな色合いの小袖と行灯袴という古風な姿の女性だった。小柄で垂れ目の童顔に趣味の良い鼈甲の眼鏡、手入れの行き届いた黒髪はけれども大雑把にひと括りにまとめられ、衣装のイメージに反するようなふてぶてしい笑顔が、凍ったように固まっている。
「変態だーっ!?」
「無断で侵入したのは不躾だったけれども、変態まで言われると少々傷付くね」
と言ってはみたものの、目を見開いて赤面する彼女を見て自分の姿がぴっちりと貼り付いたトレーニング用のショートパンツ1枚だけであるのを思い出した。なるほど書庫のような空間に居ながらこの格好で近付いて来るのは確かに変態くらいのものだろう。
だが生憎と僕は変態ではないし、誤解は誠意を持って相対すれば解けるものだと思える程度には性善説を信じている。
「変態ではないと証明しよう。まずは僕の身体を……じっくりと見て欲しい」
「変態だーっ!」
少し言葉選びが甘かったのか誤解が深まったようだけれども、まあ些細なことだ。
百聞は一見に如かず。
足を軽く開いて大腿四頭筋に力を込め、広背筋を広げ腹筋に力を入れながら拳を握り下へ向ける。そして仕上げの笑顔。
どんな格闘技や芸術にも大抵基本となる所作、構えがあるように、僕たちボディービルダーの誰もが最初に身に着ける基本の構え。
その名はフロントリラックス。
減量前でキレの少ない身体を披露するのに羞恥はあるが背に腹は代えられない。それにどうだ、彼女も驚愕の表情で見入っているじゃないか。
「おわかりいただけただろうか」
僕の問いかけに彼女が生唾を飲み込んで息を吐いた。
「今までに見たことが無いタイプの変態だね」
「ちがう、そうじゃない」
僕は重心を片足に寄せながら拳を上に向けて上腕二頭筋と三頭筋に力を込める。フロントダブルバイセップス。
更にサイドチェスト、アブドミナルアンドサイと誰でも見たことのありそうなポージングを優先的に披露していく。
彼女の表情は驚きからだんだんと疲れたようなものへと変わっていった。やはり不完全なコンディションで披露すべきではなかったか?
さすがに一抹の不安を覚えたところで彼女が口を開く。
「つまりキミはボディービルダーで、トレーニングのタイミングでここに訪れてしまったからそんな恰好をしていると、そういうことかい?」
「その通り!」
「なるほど……しかし僭越ながらこれは言葉で伝えたほうが早くて確実だったのでは」
「パンイチの侵入者が言い訳がましく語る言葉より、この筋肉を見て貰ったほうが確実じゃあないかな?」
「どれだけ自信があるんだよ」
「長い付き合いだからね。彼らとは。実際そうだったと自負しているけれども?」
どうかな? と力こぶを作って笑顔を浮かべるとそれに呼応するかの如く露骨に嫌そうな顔をした。もしかするとあまりスポーツやトレーニングが得意ではないのかもしれないな。
「と、ともあれ事情は理解したし、ここを訪れた以上お客さんには違いない。こちらへどうぞ」
誘われるままに後ろを着いていくと回廊の真ん中に二脚の椅子と丸いティーテーブルが現れた。彼女が向こうに腰を下ろすと、僕も勧められるまま椅子に座り足を組む。
「しかしここは凄いね。一体どういう仕掛けなんだい?」
「仕掛けというか、ここ自体がひとつの異世界でね。言うなれば“異世界本屋”ってところさ。まああくまで本屋、すぐに帰れないとかそういう問題は無いから安心して貰っていいよ。とはいえせっかくの機会だ、一冊いかがかな?」
「それはよかった。次の大会が控えているのでそこは少し気になっていたんだ。しかしここの本は現実感が無いというか、見てもどんなものがあるのかわからないな」
ここにある本はどれも読めそうな気がしない。手に取ってみればそうでもないのだろうか?
「具体的なタイトルがわかっていればすぐに出せるよ。あとは欲しいモノの傾向がわかれば探すけれども。もしかしてあまり本は読まないほうかな?」
半笑いの顔で問われてしまった。筋トレにしか興味がないと思われたのだろうか?
それはそれで間違いではないのだけれども、実をいうとそうでもない。
「純文学寄りの恋愛小説はあるかな。情欲渦巻く官能的なモノでも若者が読むような涙あり笑いありのモノでもなく、しっとりと情景を描写されたものが良いのだけれど」
「ほう……」
彼女が意外の感嘆を漏らす。
「ウォーキングのときは少し暇を持て余してね。その時間を使って映画を観たりVTRで研究したりするんだけれども、実は特に読書が好きなんだ。入念に描写された作品はハマったときの没入感が違う。多少退屈を感じてしまう有酸素運動もあっという間に終わってしまうほどに」
彼女は小さく溜息を吐いて少し気まずそうに表情を和らげた。
「没入感、わかるよ。私もそういう作品は好きだからね。そして謝罪しなくてはいけないね」
「なにか謝られるようなことが?」
「正直に言えばキミのような男はボディビル雑誌の最新号か、さもなければ栄養学や運動工学の本でも欲しがるのかと思っていた。まったくの偏見だったと言わざるを得ない」
「ああ、なるほど。いや、実際嫌いではないから決して誤りではないよ。けれどもボディビルについては自分で日々最新情報を集めているしジムには多くの専門家もいるからね。そこは僕もプロとしての自負がある。そして、だからこそ物語は本の専門家だろうあなたに求めたい」
本心からの言葉だ。僕の好みははっきりしているけれども、本を選ぶのが得意とはとても言えないし、さらに言えばあまり時間も掛けたくない。
そういった意味では少々厚かましいかとも思ったけれども、彼女はふたつ返事に快諾してくれた。
「そう言われれば是非もない。本屋としては本望だとも。少々待ちたまえ」
彼女は暫し背を反らして回廊に敷き詰められた本棚に視線を巡らせたあと、すぐそばの棚に手を伸ばして一冊の本を抜き取った。
「こちらはどうかな? 既に読んでいる作品でなければ良いのだけれども。キミの世界で百年ほど前に執筆された作品の現代語訳版でね、言い回しが原文をよく咀嚼していて好みなんだ」
差し出された本を手に取って著者とタイトルだけ確認する。
「大丈夫だよ、ありがとう」
内容は読んでのお楽しみだ。と、そこで今さら大きな懸念に気付く。
「ところで、買うからには支払いをしなくてはいけないけれども、生憎と現金の持ち合わせがないんだ」
「ああ、まあ、そのようだね」
まさに今からトレーニングというタイミングだったので財布どころかほとんどなにも身に着けていない。
「物々交換でも構わないだろうか」
そう言って腕時計を外すと彼女に差し出した。
「SWORD O'CLOKの昨年モデル、あなたには似合わないかもしれないけれども」
ここ数年ボディビルダーの間でブームになっているマッチョ御用達のその時計は、重厚な造りでお世辞にも女性向けとは言い難い。
しかしあとはショートパンツとシューズしかない。そんなものを渡されても彼女は困るだろうし彼女が困らなくてもそれはそれで困る。
「うーん、損ではないけど貰い過ぎだなあ。残念ながらお釣りは出せないのだけれども本当に良いかい? ここだけの話、その本はキミの世界に戻れば普通の書店でも売っている。実は無理にここで買う必要は無いのだけれど」
申し訳なさそうに教えてくれる彼女に僕は笑顔で頷く。
「時計は今年の最新モデルに買い替えるから全然構わないさ。それよりも今日ここで出会って、僕の要望で本を選んでくれたあなたにきちんと報酬を支払いたいんだ。迷惑でなければ是非受け取って欲しい」
彼女が正直に伝えてくれたように、僕もまた誠意で答えたい。
プロフェッショナルから熟練の知恵を借り受けたのだからその報酬は敬意を持って当然に支払われるべきだ。
暫し沈黙したあと、彼女は腕時計を手に取って微笑んだ。
「では遠慮なくいただこうかな。私には少し大きいけれども、なに、時計なのだからいくらでも使い道はあるさ」
「ありがとう」
支払いを受けてくれて良かった安堵から思わず口を突いて出た言葉だったけれども、彼女は「それは私の台詞じゃあないかな」とおかしそうに笑うので、僕もまた笑顔で「本心だよ」と返す。
「それじゃあ、お帰りは後ろの扉からどうぞ」
促されて振り返ると、いつの間にか背後に扉が立っていた。そういえば入ってきた扉がどうなったのか確認していなかったなと今さら思い出す。
「今日はありがとう。僅かな時間だけれども、あなたとの会話は楽しかった」
「こちらこそお買い上げありがとう。でも見知らぬひとの前でポージングで自己主張するのはお勧めしないと言っておこう」
最後の最後に複雑な笑みで釘を刺されてしまった。僕は苦笑を浮かべなんとも言えない気持ちで本を手に扉を潜る。
早くこの本を開きたくて胸が疼いているのを感じる。さあ、楽しい減量期を始めよう。
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