8.もののけ

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8.もののけ

「これは……本、棚?」  薄明りを感じる廊下のような空間、回廊とでも言えばいいのだろうか。広がるその両側に隙間なく本棚が並んでいる。びっしりと本の詰まったそれは目を凝らしても判然としないほどの高さがあり、奥行きは暗がりに消えてしまいどれだけあるのかわからない。  例えるなら、無限に広がる閉鎖された図書館のような。  そこに収まっているモノはどれも見たことがあるような、無いような、文字も読めるような、読めないような……なにひとつはっきりと認識することが出来ない。 「これは、はは、なんとも面白い」  始めに零れた言葉はそれだった。  振り返りもせず後ろ手に扉を閉めると悠々と大股に踏み込んでいく。  どうせ読めないのならじっくり見る必要も無い。  安全などわからないのだから恐る恐るなんて時間の無駄も(はなは)だしい。  鬼が出るか蛇が出るか。どうせなら蛇と言わず龍でも出て欲しいところだ。  ひとは体験した出来事しか書けないなどと(うそぶ)く連中もいるけれども、それはさておき物書きならば特異な経験というものはいくら積んでも損は無い。  けれども、奥の暗がりから足音を響かせ現れた姿は鬼でも蛇でも龍でもなく、ひとりの女性だった。  海松(みる)色の小袖(こそで)蘇芳(すおう)色の行灯袴に(にび)色の長羽織を羽織った小柄な姿。長く艶やかな黒髪は大雑把にひと括りにまとめられている。  そんな古風な風体はともかく、高価な鼈甲(べっこう)の眼鏡をかけた垂れ目気味で丸みのある顔には見覚えがあった。あまりにもあり過ぎる。  無理もない。それはに瓜ふたつだからだ。  いや、厳密には本人だからこそわかる程度の微妙な違いはあるし髪だってあんなに伸ばしたことはない。彼女は私では、ない。  しかしその困惑は相手もおなじだったようで、お互いに気まずい沈黙が続く。そして先にそれを破ったのは彼女の方だった。 「ふぅむ……まあ、いいさ。いらっしゃいお客さん。ここは世界を問わない書物の殿堂だよ」 「……ど、どうも。書物の殿堂、とは?」 「繰り返しになるけれどここでは世界を問わずなんでも揃う。言うなら“異世界本屋”ってところかな。そういうの、最近流行りなんだろう?」 「それは、ええ、まあ、そうですね」  雑談交じりに何気なく踵を返して奥へ向かう彼女を追うように後ろを歩く。私はこの、自分によく似た容姿のこの人物に、実はひとりだけ心当たりがあった。けれどもその人物はとうの昔にこの世を去っている。  はずだ。  などと考えている(あいだ)にふと気付けば回廊の無遠慮なほどの真ん中に二脚の椅子とティーテーブルが置かれていた。彼女が向かいの席に座り、私も勧められるままに手前の席へ腰を下ろす。 「さてせっかくの機会だし一冊いかがかな? ここは本屋の概念とも呼べるものだ。なんでもあるよ?」 「なんでも?」 「ああ、まあ存在が認知され確信されているモノなら概ねは。とはいえあまり高価なモノは見つかったところで見合う代価が無くて御破談になったりもたまにはあるけれども」  本が、なんでもある。  その言葉をじっくりと咀嚼しながら私は改めて彼女の顔を見ていた。  彼女のかけている高価な鼈甲(べっこう)の眼鏡は私とおなじモノだ。  それは素材が同一だとかおなじ職人が作ったとかそういう話ではなく、文字通りの意味でなのだ。誰がどのように手掛けようと天然素材の飴色まだら模様の鼈甲(べっこう)がまったくおなじ柄になるなどあり得ない。  そして恐らくは彼女もその事実に気付いている。 「では……」  彼女が仮に予想通りの人物なのだとしたら。 「言葉万華譚(コトノハマンゲタン)、という本を譲っていただきたいのですが」  その題名を聞いて彼女は、無言かつ無表情に、堕ちるように視線を落とす。  決して無反応というわけではない。ただ言い知れない沈黙がそこに生まれた。  予想の正しさに確信を深めつつ、私もただ黙って答えを待つ。  どれほどが経ったろう。 「その本は、無いよ」  睨むような上目遣いで発せられた言葉は、背筋に寒気が走ったかと錯覚するほどの、重い、まるで怨嗟の呻きのようだ。 「ですが、先ほどなんでもあると」 「キミはそれをと認知し確信しているだろう。事実として無いと知っているはずだ」  彼女の右手が強く握られ震えている。 「著者が、つまり私が、それを書き上げることなく死んだのだからね」 「それでは、やはりあなたは……」 「ああ、お察しの通りさ。まったくとんだ性悪を招き入れてしまったな」  私の先祖のひとりに、とある文豪がいた。  女は家を守り子を育てるものという思想が主流の時代に、並みいる同期の男たちを寄せ付けず文筆界に輝き、しかし病で早逝した流星の如き巨匠。  なぜ若い姿でまるで生きているかのように現れたのかは知る由も無いが、とにかく目の前に存在する人格は本人が己の死まで明確に自覚しているほどに本人だ。 「さて、次はキミの番だぞ。何者だい? 眼鏡は私の遺品で挙句その顔だ。親類縁者には違いないだろうけれど生憎と孕んだ覚えも産んだ覚えもなくってね」  その鋭い視線にたじろぎはしたものの、彼女を故意に傷付けてまで得た解だ。こちらも相応の誠意を向ける必要があるだろう。 「私はあなたの姉の孫の孫、玄孫に当たる者です。この眼鏡は仰る通り、あなたの遺品を受け継いだものですよ」 「ほう、キミは初葉(ういは)姉さんの」  緊張感あふれる彼女の気配が初めて緩んだ気がした。 「はい」 「なるほどそれは似るわけだ。姉さんも私とそっくりでね、街に出るとお互いよく間違われたよ」 「そんなに……」  教科書にすら載っている彼女だがそれは実績だけで私的な話まではそれほど伝わっていない。 「そうだとも。そういえば姉さんの子どもも存外似ていたな。いやあ、懐かしい」  すっかり和やかになってしまった彼女に、けれども私は投げかけなくてはならない。それは、おなじ道を往く者の業とでも言えば良いのだろうか。 「それで、言葉万華譚(コトノハマンゲタン)はもう書かれないのですか」  それは彼女が最後に手掛けながら力尽きた未完の遺稿。 「あなたが書きかけた原稿は今でも我が家に伝わっています。完成は、させないのですか」  詰問とも言えよう態度に彼女はティーテーブルへと視線を落とした。震える右手を左手で押さえるようにつかんで深い溜息を吐く。 「私はもう死んだんだよ。言葉万華譚(コトノハマンゲタン)は完成しなかった作品なんだ」 「でも、あなたは今こうやって私と話しているではありませんか。ここで書こうとは思わなかったのですか?」  ここで原稿用紙が手に入らないというのでもなければ書く機会自体はあったはずだ。けれども彼女は億劫げに首を横に振った。 「実は何故死んだはずの私がここにいるのか、私もなにひとつわかっていないんだ。こんなところ、いつ潰えるかもわからない泡沫の夢だとは思わないかい」 「それは……」 「仮に書いたところで稀に訪れる誰かに求められない限り世に出るわけでもない。そんなモノを書いてなんになる?」 「でも、もし書いていれば、今日私が……」 「やめろっ!」  彼女の制止は、怒声というよりは悲鳴のようだった。改めてこちらへ向けられたその眼差しは後悔と涙に溢れている。 「私だって、書きたかったさ……」 「もう書かないのですか」 「もう書けないよ……私の心は、折れてしまった」  彼女の右手がティーテーブルに爪を立てる。 「書きたいんじゃないですか」  我ながら嫌な問いだ。 「……書きたいとも」 「書かないのですか」  暫しの沈黙。 「古い馴染が……ここを訪れたことがあってね、金に困っていたようなので手にしていた原稿を高く買ってやろうと申し出た。まあ断られたのだけれども……でも、もしあのとき彼が原稿を手放していたら……私は今、笑ってキミを追い返したのだろうな」  目尻の赤く腫れた視線を上げた彼女の顔には、覚悟があった。 「彼に感謝するといい。言葉万華譚(コトノハマンゲタン)をキミに売っても良いよ」 「本当ですかっ!」 「だが事実として存在しない本だ。代価は相当に高くつくよ?」 「いくらでも払いますとも……私で払えるモノなら」  物心ついた頃から何度も読んだ言葉万華譚(コトノハマンゲタン)の生原稿。もはやあり得ないはずのその続きを本人の執筆で読めるというのであれば、それは生涯を捧げるに値する。  実のところ私はそれくらいに彼女のファンなのだ。 「はは、子孫にそこまで言われれば作家冥利にも尽きるというものさ。けれどもその言葉は、これからキミに身を持って証明してもらう」  そう言うと彼女は席を立ち、行灯袴の帯を解いた。当然それはすとんと床へ落ち、おはしょりされていた小袖(こそで)の丈もずるりと下がる。  あっけに取られている私に構うことなく長羽織を脱いで椅子の背もたれにかけ、続いて海松(みる)色の小袖(こそで)までも脱ぎ去って襦袢一枚の姿になった。 「え、ええと……なにを?」  私の狼狽気味な問いに彼女はにやりと笑みを浮かべる。 「未練を断つのさ、文字通りの意味でね」  脱いだ小袖(こそで)をティーテーブルへ広げると、彼女はその上へ右の前腕を差し出して左腕を掲げた。その手にはいつの()にか大振りの鉈が握られている。 「え? え?」  なんとなく今から起こる光景を想像はしたけれども、まさか? そう思った私の目の前で事態は寸毫も待ってはくれない。 「よいしょっと!」  彼女は手にした鉈を右前腕目掛けて躊躇なく振り下ろした。  まるで大根かなにかのようにすとんと抵抗なく切り落とされたそれは、切断面こそ生々しくはあれど鮮血が噴き出るでもなく、あっさりと彼女の一部を辞めて非現実的な存在感を持ってティーテーブルの上に鎮座している。 「腕っ! あ、あのっ! 腕がっ!」 「うるさいな、大丈夫だから少し待ちたまえ」  錯乱した私に比べて彼女は遥かに冷静だった。切断した右腕を左手一本で小袖(こそで)に包むと、なに食わぬ顔でこちらへ差し出してくる。 「さあ、受け取りたまえ。これがキミの御所望のであり、同時にでもあるモノだ」 「これ、が……本?」  意味がわからない。 「いやでも、これはあなたの右腕で……」 「そうだよ?」 「そうだよ、って……」 「存在しない作品であるのなら、書くしかあるまい?」  身を持って証明する。その言葉を心のなかで反芻し、無意識に自分の右腕を撫でる。つまり……。  けれども私の仕草に気付いた彼女は生ぬるい笑みを浮かべた。 「はは、なるほどそれも悪い案ではないが、それは私の空想とは少し違うな。まあそのうち自分で使うと良いよ」  私は小さく息を吐いた。予想を外した恥ずかしさと安堵の気持ちは半々くらいだろうか。彼女は続ける。 「キミも文筆家のはしくれなら知識と想像力を練って意図を当ててみたまえ。そうだな、本来の伝承とは違うが共通する要素はみっつ。おそらくは上手くだろう」  伝承に共通するみっつの要素はたぶん未練、手、そしてわざわざ包んだ小袖(こそで)という言い回し。  ピンと来るものがあった。そして私の表情から察したのか、彼女が続ける。 「言っておくがこいつは未練の塊だからね、キミよりずっと性悪だ。そしてお察しのとおりに続きを執筆させることこそがキミの支払うべき代価であり、その結末次第では本を手に出来るかもしれない」 「払う代価はこれからの行い次第。それが不足すれば、商品も手に入らないというわけですか」 「ありていに言えばそういうことだね。でも十分に賭ける価値はあるだろう? キミにとっても、そして私にとっても」  言ったその顔はまるで憑き物が落ちたかのように悪気の欠片も無く晴れやかだ。 「そこに私の執筆意欲の全てを詰め込んだからもう私に未練は無い。めでたく今日から読み専というわけさ。そして」  彼女は改めて包みを差し出す。 「私の文筆家としての業と未練は、キミが全て現世へ持ち帰るんだ」  恐る恐る受ったそれは、まだときどき動いている。これは死体の腕などではない。  彼女の未練の集合体なのだ。 「わかり、ました。その条件で……」  なにをしてでも、この腕に本を書かせて世に送り出す。それこそが私の使命。 「この本を買いましょう」
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