1話 引っ越し

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1話 引っ越し

 築二十年を超えるアパートに、一人の男が越してきた。  名前は朝木(あさき)(けん)。  彼は角部屋を希望したが「もう住んでるよ」と素っ気なく大家に却下された。  謙は大家の甥にあたる。謙の地元は少し離れているが、正月や盆など、長期の休みには、親戚一同が祖父母の家に集まることが多い家系で育ったため、二人が顔を合わせることは多かった。  謙は無職だった。親から仕送りをもらい、遊び歩く毎日。 「謙、ちょっと仕事を頼まれてほしいんだけど」  謙が引っ越してきてから数か月後、大家は謙にとある依頼をした。 「隣の部屋──あんたが入居したいって言ってた部屋の掃除をしてほしいんだ」 「掃除? なんで俺が」 「夜逃げしたんだよ、そこに住んでた人。掃除が終わったら、角部屋に移っていいから」 「やります」  大家の鍵で中に入ると、布団やテーブルなどがそのままになっていた。もともと住んでいた住人は綺麗好きだったのか、部屋全体が綺麗に整えられている。ただ、大小さまざまな箱だけは何に使っていたのかは分からないが、ゴミとして出していないらしい。部屋の片隅を占領するほどの量が残されていた。 「……これ、ほんとに夜逃げしたの? 何も持っていってなくない?」  クローゼットの中は、服が種類別に分けられて並んでいる。 「夜逃げみたいなもんだから、早く掃除終わらせろよ」 「待て待て、みたいってどういうことだよ」  部屋を出て行こうとする大家を引きとめて、謙は問いただした。 「なんでもないよ」 「いや、これから掃除するんだから気になるだろうが」  二人は小競り合いを続けていたが、大家が先に折れた。 「ここに住んでた人、行方不明になったんだよ。会社にも行ってないし、かといって死体も上がってない」 「死体って……」 「他のアパートではたまにあるらしいんだ。どこかで死体となって発見されたとか、下手したら部屋の中で、とか。でも、今のところは見つかってない。ただ、謙が来るより前から連絡が取れなくてね。もう半年も家賃を滞納したままだから、そろそろ退居してもらわないといけない」 「退居してもらわないとって……親とかには連絡したのかよ」 「親はいない。頼れる親族もいない。連絡先も、会社の電話番号だった。で、会社には行っていない。もうどうしようもないってわけ」  唖然とする謙に「たまにあるんだよ。だから気にしなくていい」と言って、大家は玄関に向かった。 「……いや、待って」  謙は大家のあとを追って引き留めた。 「なんだよ」 「業者に頼めばいいじゃんか。何で俺なんだよ。感染症とか怖くね?」 「ああ、感染症とかにかかったら金は出す。安心してかかっていい」 「いや、そういう話じゃねえだろ。かかったら困るんだよ」 「大丈夫大丈夫。あんたなら乗り越えられる。自分を信じな」 「そうじゃなくて、真面目に言ってんだよ」  大家はため息をつくと、真面目な顔で言った。 「業者に頼むと金かかるだろ? ここ、家賃滞納してるやついっぱいいるから大変なんだよ」 「取り立てしろよ」 「めんどくさい。じゃ、そういうことで」  そう言って靴を履きかけた大家は「あ、そうだ。ちょっと待ってろ」と、外へ出た。  数分もしないうちに戻ってきた大家は「はい」と中に何かが入ったビニール袋を手渡した。 「なにこれ」 「マスクとか、もろもろ。あと、掃除してくれたら、一か月分の家賃免除だから。じゃあ、頼んだ」  大家は謙の肩をポンと叩いて出て行った。 「家賃、免除……」  謙はため息を零しながら、マスクを取り出して耳に引っかけた。  振り返ると、薄暗い部屋の中が見える。綺麗に整えられているものの、確かに誰かが住んでいたという痕跡に溢れている。 「……気味わりぃ」  独り言を零しながら、謙は覚悟を決めて部屋へと向かった。
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