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2話 出会い
角部屋に移動してから数か月後、もともと謙が住んでいた部屋に、一人の女性が越してきた。
「今日から隣の部屋に越してきた米田野乃花と申します。よろしくお願いします」
野乃花は謙と顔を合わせるたびに挨拶をするような、礼儀正しい女性だった。短い会話をすることもあり、謙は彼女が近くの大学に通う大学生だということを知った。
野乃花は目を合わせるということを避けているようだった。しかし、人を避けているという印象はなかった。
謙はただの恥ずかしがり屋だと結論づけた。
そのうち、謙は野乃花のことが気になりだした。挨拶をされるたびに、温かい気持ちになった。
しかし、同じ頃、実家から電話やメールが頻繁に送られてくるようになった。
早く働くようにという催促の連絡だった。
謙は一度、とある中小企業に就職したことがあった。
「おめでとう」
就職が決まった時の嬉しそうな両親の顔は、いまだに覚えている。
しかし、入社してすぐに、そこがブラック企業だと気づいた。
朝から晩まで働き詰め。睡眠時間は四時間取れればいい方。仕事は家に持ち帰るのが基本。食事は一日に一回。風呂はシャワーだけ。
そんな日常を続けていたら、鬱になった。
謙は会社を辞めて、実家に戻った。
一年かかって、体調が元に戻った。
謙は両親に、一人暮らしをしたいと申し出た。
社会復帰の一歩だと、両親は承諾した。
そして、謙はここにやって来た。
治ったはずなのに、両親からの連絡が来るたびに、気分が落ち込むようになっていった。
何もなくても楽しくて、何もなくても満足していた日々が、色褪せて、意味のないものに見えるようになった。
そんな時だった。
「あの、買い物を手伝ってもらえますか?」
野乃花に声をかけられた。
「買い物?」
「はい、ちょっと、量が多いので、手伝っていただけないかと」
謙は呆れた。
「あの、ただ隣に住んでいるだけの男を買い物に誘うのは不用心じゃないですか?」
「そうでしょうか」
「挨拶をするだけの仲じゃないですか。しかも、俺、男ですよ」
「でも、あなたは何もしないから」
謙はため息をついた。思い込みが激しい女性なのかもしれない。
断ろうとした謙だったが、華奢な野乃花が大量の荷物を手にしているところを想像して、無下に断るのも悪いという気がしてきた。
「……怖くないんですか?」
「何がですか?」
「だって、俺、何するかわかんないじゃないですか」
「そういうことを言う人は、大体、良い人なんですよ」
「……」
「買い物、手伝ってもらえませんか?」
「……まあ、米田さんがいいなら、いいですけど」
「ありがとうございます」
結局、謙が折れた。
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