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第5話 誰そ彼に、影。前編
一介のライター風情には手に余ることもある――。
『某所心霊スポット行ってから、霊障に困っています』
私のSNSにこんなDMが届いた。
冒頭の部分で『またか』と思うようなDMではあるが、実はDMを知らせるアイコンが踊った瞬間から、ある種の予感めいた胸騒ぎがあったのだ。
本来なら関わらないという選択肢もあったが、当然私はすぐに返信。
差出人とは、その日のうちに会うことになった。
午後三時。
待ち合わせた場所は、子安貝駅前の【チャイム】という、どこにでもありそうな名前の喫茶店だ。
私は、待ち合わせの一時間前に到着。【たい焼きとバニラアイスのセット】を食べようと思っていたのだが。
「徳さん、たい焼き――」
「ミサちゃん」
店に入るなりの注文を投げる私の言葉は、白髪に白髭で、蝶ネクタイのクラシックスタイルのマスターによって容易く遮られ、そんなマスターの視線が奥のテーブルを示している。
ああ、依頼人らしき女性が既にいる。
ワイシャツ越しでもわかる逞しい胸板。
とても七十代には見えないナイスグレイのマスターに、私は口元に手を当てて問いかける。
「あの子、いつから?」
「ランチの客が落ち着いた頃だから、一時間ほど前かな」
なんて気が早い。つまりは、約束の時間の二時間前という事だ。
「ふむ。じゃあミックスジュースで……」
既に”たい焼きとバニラの胃“だったが、“話にも、味にも”集中したい私の選択はメニュー変更だ。
さておき、私は依頼人の向かいに腰を下ろした。
「早かったですね。ライターの久津です」
「はい。あの、ユーミです」
彼女は控えめな声量の、少し掠れた声で名乗った。
勿論、SNSでのユーザーネームだ。
見た感じ、二十代後半で、服装に派手さはなく落ち着いたコーデ。
よく言えば”純朴そう“、悪く言えば”あか抜け“ないタイプで、黒い束ね髪がそれを増長させている印象だ。
職業は水商売とのことだが。
正直、あまり心霊スポットに行くようなタイプには見えない。
そもそも心霊スポットと知って行く輩に、真っ当な奴はいない。と偏見ではあるが私は思っている。
で、今の所ユーミ氏は真っ当に見えているのだ。
「井谷渓の、あのスポットですよね。ご友人とですか?」
井谷渓というのは地名だ。
なかなかに有名なスポットで、県道から一本入った清流沿いの建物の事だ。
幽霊廃墟であったり、呪われた廃民宿であったり、いろいろな二つ名がついている。
「いえ。あの、同僚と、あと店のお客さんとです。どうしても断れなくて」
なるほど。
ユーミ氏は行きたくなかったという事か。まあ、本当だろう。
というか、言葉の端々にも気弱な様子が見て取れる。
心霊スポットどころか、水商売をしているようにも見えないから本当に意外だ。
マスターが、銀のトレイでミックスジュースを運んできた。
「ごゆっくり」
「どうも」
軽いやり取りの後、私はジュースのグラスを持ち上げる。
そして視線の先をユーミ氏に戻し、
「で、具体的に何があったんです?」
そう私は本題に入りつつ、ストローを使わずグラスのフチをそのまま唇に運ぶ。
ユーミ氏は、日焼け対策かと思われたアームガードを捲り上げた。
すると手首にくっきりと、赤い痣がついていた。
握られた痕のようにも見えなくはない。
そして、それを目にして、「痛っ」と訴えたのは私だ。
ジュースは既に喉元を過ぎていたのに、急に八重歯が痛んだのだ。
「あの、大丈夫ですか?」
そう問うユーミ氏に、私はやんわり笑みを返しながら言った。
「ああ、すいません。”知覚過敏“気味でして」
ユーミ氏はまず、行く事になった経緯から語った。
出勤前の時間、同じキャバクラに勤める友人と、同伴のお客二人。ダブルデートという形の計四人で食事をした。
その後、心霊スポットに行こうという話になった。
そもそも何故、食事の後に心霊スポットに行こうという話になるのか、理解に苦しむが、そこはさて置く。
渋い顔のユーミに対し、「まだ明るいから大丈夫だよ」と言う同僚。
ユーミは空気を読んで、しぶしぶのまま了承した――。
「で、建物内へ?」
「はい」
心霊スポットだって、たいていは所有者がいる。
いなくても、廃墟だから入ってもいいと言う法はない。
輩は、そんな根本的な部分すら忘れてしまっているのだ。
――さて、井谷渓についてだが、建物は三階建て構造になっていて、すぐ後ろにある山の斜面に面するように建っている。鉄筋コンクリートで作られた割と丈夫なつくりだ。
廃墟となった根本原因の火事で、内装はほとんど残っていない。
その後、廃墟になってからもボヤ騒ぎが二度ほど起きているが“霊の仕業”などではない。
遊びに来た悪ガキ共どもの、煙草の不始末と悪戯が原因で、証拠も挙がっている。
この心霊スポットには、実は幽霊話などない。
そもそも、なぜ心霊スポットと呼ばれるようになったのか。
始まりは昭和の終わり頃、約四十年ほど前の話だ。
その場所は、【鈴屋】という料理旅館だった。
鈴屋名物の山菜鍋は、客の前で炊くスタイルだった。
そんな鍋のコンロにつながるガス栓から延びるコードに、走り回った子供が躓き、線を抜いてしまった。
そして気が付かないまま父親が煙草を一服。
そして、引火したのだ。
この事故では、仲居さんが一名重傷、客のうち三名が軽傷を負った。
幸いにも死傷者は出なかった。
だが経営上の理由で再建はかなわず、【鈴屋】は廃業。
建物を残したまま、土地は売りに出されたが、売り手はつかず放置されることとなったのだ。
この建物が本格的に心霊スポットと呼ばれるようになったのは、元号が平成へと代わった初めの頃。
霊視、霊能、心霊ブームが起こり、テレビ番組が面白味を持たせるために過剰に脚色が目立った。
当時のテレビ番組は、数字が取れれば割と“やらせ”も多かったらしい。
ネットの情報はまだ乏しく、テレビがもっとも影響力のあった時代だ。
そして鈴屋の一件にも、
『逃げ遅れて死んだ、その無念は晴れることなく、怨念となっていまだに彷徨っているのだろうか』
と、当時のテレビ局と、著名な霊能者が尾ひれをつけたのだ。
それから現在に至るまで、
『オーナーが事件を苦に自殺した』
『廃墟で首つりが見つかった』
『裏山には戦国時代の首塚がある』
など、どんどんと噂は付け足されていった。
さて補足はさておき、ユーミ氏の語りに戻る。
――夕暮れ時、ユーミたちは、立ち入り禁止のプレートが括られた柵の隙間から、四人で敷地内に侵入。
一階の、ガラスが割れて解放状態になった大窓から屋内に入った。
そこはタイル張りの大浴場だった。
渓谷をながめながら風呂に浸かるという構造も、今は見る影もない。
ユーミたちは浴場から出て廊下を進み、階段を上がり二階へと向かう途中だった。
踊り場で突然、目の前に白い何かが目に入ったのだ。
だが、なんてことはない。悪ガキが、壁にスプレー缶で落書きをした跡だった。
暗闇で見たら誤解しそうな、幽霊の正体見たりというやつだ。
「なんだよ、落書きかよ」と、驚いたのも一瞬だけで、ユーミたちは再び、階段を上がっていく。
二階への通路は、窓から倒木が入り込み通路を塞いでいたので断念。
階段自体も老朽化で、ところどころ穴が開いていたが、そのまま用心しながら三階へ向かった。
二階から三階への踊り場に差し掛かった瞬間だった。
一番後方にいたユーミの手首を、何かが引っ張った。
「えっ」
ユーミはとっさに振り返ったが、誰かいる様子はない。
しかしその時から、ユーミの耳の奥で、じーっ、と響くような耳鳴りが起こったのだ。
吐き気もこみあげてきた。
ユーミは同僚に気分が悪いと伝え、同僚と共に来た道を引き返すことにした。
だがお客二人は、屋上にまで上がると言い、二人が建物から出てきたのは、ユーミたちの十分ほど後だった――。
「それからなんです。仕事を終え、私が――」
「いや、ちょっと待ってください」
と話の途中だったが、私はユーミの言葉を遮った。
赤い痣が目に入るたび、八重歯が“痛む”のだ。
「はい、あの、大丈夫ですか?」
相当私の顔が歪んでいたらしい。ユーミが小首を傾げている。
「ああ、“これ自体”は大丈夫なんですけどね。正直言うと、ネタとしては面白い。だけどこの後、何かしてくれって話になると、私には手に余るんですよ」
みなまで聞く前にわかる。私の率直な感想だ。
「あの、じゃあ、どうしたら……」
ユーミが眉間に皺を寄せた。不安によるものだろう。
怖がらせるつもりじゃなかったが、捏造して安心させるような案件でもない。
つまり対処が必要な案件だ。
私はスマホを内ポケットから取り出す。
「その手の専門を呼びましょう。今ならきっと“起きて”いるはずだから」
そう私はアプリを起動、そのまま通話を押した。
軽快なコール音が何度も繰り返されている。
ユーミは不安な顔をしていた。
「大丈夫ですよ。多分この件は“成功報酬”で行けるはずだ。それでも嫌なら話だけして断ってもいい」
不安の理由は、金銭面の事ではないだろうが、一助になればという蛇足だ。
私は、ユーミにも聞こえるようにスマホをスピーカー状態でテーブルに置いた。
それから十コール以上鳴らしてやっと、コールが止まった。
『……はい。仕事以外なら切るけど?』
と、ぶっきらぼうな女の声が続く。
「仕事だよ。今【チャイム】にいる」
『あぁ、今? ちっ、分かった三十分で行く』
明らかな舌打ちを挟み、一方的に通話が切られた。
それから、何となく世間話を交えながらの三十分。
七沼那智。
レイヤーカットの茶色ボブ、最低限、髪だけ整えてきたという様子でジャージ姿の彼女が現れた。
ナチが席に着き、再びユーミが事の顛末を語り始めると、話の途中でナチは片手を差し向け遮った。
「ばーか、明るいから大丈夫。じゃねぇよ」
「え?」
ナチの突然の乱暴な言葉に、ユーミは困惑した様子だった。
「おーい、ナチ。お客さんだから、ね?」
そう私がたしなめると、ナチはあからさまに、チッ、と舌打ちしてから、
「誰ぞ彼だ。そこにいる彼は誰ぞ? 影刺す足元見て悟れ、逢魔が時は、一等に恐ろしや」
ナチは、歌うように言って立ち上がった。
誰ぞ彼時。
つまりは黄昏時、夕暮れ時分の昼と夜が移り変わるときのことで、古くは【暮れ六つ】や【酉の刻】ともいい約十八時頃を指して言った。
そして【逢魔が時】とも、【大禍時】とも書く。
著しく不吉な時間を意味しているのだ。
「おい、とりあえず断ち切りに行くぞ」
そうナチは出口に向かって歩き出した。
「ユーミさん、行って」
私が急かすと、慌ててユーミはナチの背を追った。
これからナチは、ユーミの住むマンションに向かうのだろう。
なのに案内される側のナチが先に出ていく。これはもう性格上の問題で、仕様というほかない。
「なっちゃん、相変わらずだねぇ」
そう言うマスターに、私は二人が出て行った扉から苦笑いの先を変えた。
そして、改めて注文する。
「徳さん。たい焼きアイスセットね」
「了解」
少しばかり込み入った事になるのは目に見えている。
だから私は、とりあえず甘味で補給をする。
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