即興小説 ひな祭り前編

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がやがやと遠くのほうで音がする。 ところどころで『結婚』という言葉が聞こえたので、最近は母が親戚のおばさんたちと話しているのだと思った。 けれど徐々に眠りから覚めて意識がはっきりすると、聞こえてきた声が母のものでも親戚のおばさんたちのものでもない、少し甲高い声だということに気がついた。聞き慣れないはずの声はどこか懐かしさすら覚える心地のよい不思議なもので、私は再び眠りにつきそうになったが、誰かが呟いた「……殺す」という物騒すぎる言葉で飛び起きた。 まだ少し重たい瞼を必死にこじ開けて辺りを見渡したが、一昨日ぶりに見る実家のリビングはこの家を出た時とさほど変化はなく、両親は出かけたのかさっきまで寝ていたコタツの上には置き手紙とみかんだけが置いてあった。当然のことながら私以外に人はないない。 静まりかえるリビングで、なんだ夢かと胸をなで下ろしたのもつかの間、「ねえ、あなた」とさっきよりもはっきりと涼やかな女の声が聞こえた。 空耳にしては聞こえすぎるし、泥棒や不審者にしてもこんな声のかけ方はしないだろう。これでもかと警戒しながら、リビングを注意深く観察した。 コタツの中に年季の入ったソファー裏、それから入り口付近にあるキッチンを確認したが、気配どころか人の影すら見つからない。 けれどキッチンから向かって正面にあるテレビを見た瞬間、「あ」と声を出さずにはいられなかった。 正確には父が奮発して買ったのだと言っていた薄型テレビではなく、その右隣にある七段もある大きな雛壇だ。 我が家には、私が物心つく前から立派な雛壇と雛人形があった。子供の頃からひな祭りが近づくと、父が庭の物置から雛壇と雛人形を出してきてはテレビの右隣にある空きスペースに飾るのが習慣だった。 けれど私が高学年になるにつれて雛人形を飾る習慣はペースを落としていき、やがて大学進学を理由に私が家を出たのが決定打となり雛人形たちは日の目を浴びることなく物置へと追いやられていた。 その悲しき雛壇が当たり前のように居座っていた。 主役であるはずの雛人形を飾らずに。 最初は父が私の帰省に合わせて出してきたのかと思ったが、そんな素振りは一切なかった。では母が?とも考えたが雛人形だけならまだしも、七段もある雛壇を母が出すのは無理だ。 じゃあ誰が出してきた? あまりにも意味のわからない光景に私はただ呆然とするしかなかった。 そんな私を見かねてか、先程の涼やかな声が再び私へ話しかけてきた。 「ねえったら。聞こえているのでしょう?」 後ろから聞こえる声に恐る恐る振り返る。 コタツの上にはミカンと置き手紙。そしてその少し後ろに控えるは、立派な十二単に古風な髪型をした四人の女性たち。三人の女性を従えた彼女たちの風貌は、私がまだ幼かった頃から何ひとつ変わってはいなかった。 彼女はゆっくりと微笑んで、薄紅色のおちょぼ口をひらいて私に話しかけてくる。その姿はまさにお姫様そのものだった。 「お久しぶりですね、京香」 「やっぱり理想は三高ですよね」 「やっぱりそうよね」 「高収入、高身長、高倉天皇」 「あら、高倉天皇ってそこまで背丈は良くないわよ」 「……すみません、何の話をしているんですか」 ついに我慢できなくなった私は、やや控えめにツッコミを入れた。控えめなのは彼女たちが職場のお局集団に似ているからだ。 唐突に始まった雛人形女子会(本人たちがそう言っていた)は私と私の混乱を置き去りにして、好きな和歌の話からいつの間にやら歴史上の人物である高倉天皇へのディス話へと変わっていた。というか雛人形の口から三高なんて下世話な言葉は聞きたくなかった。 「何ってあなたの結婚の話ですよ」 眉のない官女が何を今さらと言わんばかりの顔をした。それに便乗して金色のじょうろのような物を持った官女と、柄杓を持った官女が、重そうな頭を縦に振って同意している。 不意に振られた嫌な話題に思わず天井を仰ぎ見たが、ただただ面白みのない白い天井があるだけで、この悪夢から覚めることは決してなかった。 そうこれは両親から結婚をせっつかれている悲しきアラサーが見ている夢だと私は結論付けた。誕生日だからという理由でひな祭りに実家へ帰省したから、雛人形たちが喋りだすなんて荒唐無稽な悪夢を見ているのだ。 夢ならあとは、目が覚めるのを待つだけだ。それまでこの悪夢に付き合おうと割り切っていたが、まさか雛人形にまで結婚しろと言われるとは思わなかった。こういう場合、結婚願望はありませんなんて言ったら火に油を注ぐだけだと、ここ数週間の両親から繰り出される結婚攻撃で学んだ私は、沈黙を貫いた。 私の沈黙を結婚への肯定だと受け取ったのか、お雛様と官女たちのお喋りは止まらなかった。 「でも結婚となると嫁姑問題は深刻よね」 「介護や同居問題も忘れてはいけませんからね」 「遺産相続もね。夫に兄弟がいたら大変よ」 「私それで、危うく殺されかけたわ」 結婚させる気のない会話を繰り広げているが彼女たちはどこか楽しそうで、夢なのに結婚しないことへの罪悪感と居心地の悪さが私の中に渦巻いた。 太鼓と笛の音がどこからともなく聞こえたのはそんな時だった。 お寺や神社の祭事の時に聞こえてきそうな音色だったが、どういうわけか奏でているのは最近流行りの結婚ソングだ。 するとその音が合図になったのか、お雛様たちの喋り声はぴたりと止まり、楽しそうな表情から一転して無表情へと変わった。 依然鳴り止まない、楽器とはかけ離れた結婚ソングに嫌な予感がした。 自分の記憶をたぐり寄せる。 雛壇には誰も座っていなかった。 お内裏様も、家臣も、五人囃子も。 「来たわね」 涼やかな声には隠そうともしない厳しさが含まれていた。まるで邪魔者が来たと言わんばかりの口調だった。 既視感を覚えながら音楽の発生源へと目を向ける。キッチンが一望できるカウンターテーブルの上には真ん中のしゃくを持った男を筆頭に、右側に太鼓と笛を持った五人組、左側には弓矢のようなよく分からない物を持った同じく五人組が、テーブルの上に品よく鎮座していた。私の近くにいるのが全員女なら、キッチンの側にいるのは全員男だった。 さながら日曜日の朝に放送してそうな戦隊モノのヒーローのような登場だった。 ドコドコとリズムよく太鼓が鳴り、笛の音と歌声が雅やかに重なる。演奏中、この場にいる全員の間に言葉はなかった。なんとも奇妙な時間だったが、曲のラスサビが終わると、しゃくを持った男がむくりと立ち上がり、それに続いて左右に従えていた者たちも立ち上がった。 「話は聞かせてもらった。 私も力になろう」 糸のように細い一重をさらに細めてしゃくを持った男、お内裏様は力強く宣言した。 私がぐったりとその場に倒れ込んだのは言うまでもない。
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