思ひたる故に

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思ひたる故に

 雪治が妖を倒した翌日は、江戸の町も話題に事欠かない。おりんの無事を確認しに、朝から何人もの知人が長屋を訪ねていた。雪治を長屋まで連れてきたこともある団子屋の看板娘――お夏もそのひとりだ。  彼女は店に出ないわけにはいかないと一度は気持ちを抑えたものの、やはり居ても立っても居られず朝食を摂ってすぐに両親の許可を得ておりんの住む長屋へ向かった。戸を叩きおりんが出てくるとお夏は目に涙を浮かべて彼女に抱きついた。  「おりん!……よかった、無事でよかった!」  「お夏……心配をかけてすまないね」  親友でもあり妹分でもあるお夏に抱きつかれ、おりんは彼女を抱きしめ返してその背中を優しく撫でた。おりんが謝罪を口にすればお夏は抱きついたまま首を横に振る。  「いいんだ。おりんが無事なら、それでいいんだよ」  「ありがとう、お夏」  互いに涙を浮かべて抱き合った彼女らは、そのままおりんの部屋で1日を過ごすことにした。お夏は両親から休ませてもらって来ていたし、おりんは朝から人が訪ねて来ていて仕事どころではなかったため急遽休業していた。町人は基本的には日銭暮らしだが、おりんは1日くらいは休んでも問題ない程度には懐が温かい方だった。  ふたりはおりんの部屋で並んで話しながら、おりんを訪問してくる知人たちを相手にしていた。おりんがその全てに雪治の勇姿を語るものだから、昼頃にはもうお夏もその内容を覚えてしまっていた。  「しっかし……おりんは相当にあのお侍に惚れ込んでるねぇ」  助けられたとは言えまだ数回しか会っていないのに、とお夏が不思議そうにおりんを見つめた。おりんは照れくささに薄っすら頬を朱に染めつつも素直に頷く。  「そうだねぇ。助けられたのもそうだけど……戦いは強いのに終わった途端怖がってたのが何だか放っておけないというか……。会うたびに格好いいところも可愛らしいところも知れて惚れ直すしかなくてね」  「ふぅん?」  「お夏もそのうちわかるさ」  雪治の姿を思い浮かべてうっとりと目を細めるおりんにお夏が納得いかなそうな顔をすれば、おりんは彼女の肩にぽんぽんと手を置いて物知り顔で頷いた。お夏は眉を寄せて拗ねたように唇を尖らせる。  「子供扱いしないどくれよ!俺だってもう年頃なんだよ?」  「男のひとりやふたり作ってから言うんだね」  「おりんだって惚れた男を落とせてないじゃないか!」  「おっと、こりゃ一本取られたね」  お夏は同じ年頃の娘たちと比べても浮ついた話がなさすぎる。人の話を聞くのは好きなくせにいざ自分のこととなると逃げてしまう彼女におりんが肩を竦めると、予想外に鋭い反撃をされてしまった。負けました、とおりんが降参のポーズをとれば、またふたりは楽しげな声で笑う。  そこへ、せっかく召した良い着物が勿体ないほど猫背の細身の男が現れた。ここ最近、顔を出していた時とは顔つきが違いすぎてお夏は一瞬わからなかったが、男は昨日のおりん誘拐事件の首謀者である平田で間違いなかった。  おりんにとっては今の気弱な姿の方が見慣れた平田の姿だ。やはり最近の平田は妖に取り憑かれていたのだろう、雪治が祓ったことで正気に戻った様子の彼を見ておりんが微笑む。  平田は武士でおりんは平民だ。平田からおりんへの謝罪はなくてもおかしくなかったが、彼は深々と頭を下げた。お夏はそれに驚いて目を見開いたが、おりんはわかっていたように頷いて目を細めただけだった。  「もう……顔も見たくなかろうな……」  眉も肩も落としている平田に、お夏が「当たり前だ」と食ってかかろうとするのを抑えて、おりんは首を横に振った。かつて会えるだけで嬉しいのだと笑っていた平田の気持ちが、今のおりんにはよくわかりすぎる。妖に憑かれてやってしまったことを責めて顔を見ることさえも禁ずるのは、余りに酷に思えた。おりんは努めて優しい声音で平田に尋ねる。  「三味線、習いに来るかい?」  「へ……?」  「今回の件は妖のせいだったからね、あんただけが悪いわけじゃない。責任を感じてるなら習いに来て金でも落としてくれりゃ充分さ」  「ええっ!?」  「かたじけない……」  おりんの寛大な言葉に平田はまた頭を下げ、お夏は目を見開いた。元の気弱だが真面目で偉ぶらない性格に戻った平田は、平民に混ざることも気にせず、生涯おりんの三味線教室に通いつめることとなるのだった。
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