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東雲色
彩音の言葉が、一瞬だけ止まる。
「貴方といるときでも、そうやって馬鹿にされて、罵られて、今まで通りだったから慣れたはずなのに、どうして……どうしてこんなに、悲しいの」
僕に向けられた潤んだ瞳は、これまでに知ることはなかったほどに溢れ落ち、マフラーの一部が濡れていた。ポロポロと溢れ続ける哀の感情が、僕には経験したことのないものだ。こんなにも泣いているのに、その気持ちが全て伝わらないことが、酷く残酷だと思った。
帰りの電車、鼻を啜りながら涙を隠して座り込んだ席は温かく、家の最寄り駅までの道のりで彩音はいつの間にか眠ってしまっていた。きっと濃い一日で、、とても疲れていたのだろう。肩に乗りかかる頭の重さが、眠りの深さを教えてくれた。駅名を知らせるアナウンスの合図で、左肩を揺らして目を覚まさせる。うーんと唸りながら首を持ち上げ、目を摩っている。
「もう着くよ」
僕が囁くように伝えると同時に、彩音は電車内の案内表示を見上げた。文字を確認する彩音の横顔を見て背もたれから身体を離し、固まった背筋を伸ばす。寝ぼけ眼と視線が合致して、どこか僕の胸を和ませた。
電車がフラフラと人を揺らしながら停車し、僕らは暖かい箱の中から再び寒い外の世界へ足を踏み出した。さっきよりも随分と冷え込んでいる。改札を抜けた先、大通りに面したロータリーからバスに乗り込み、街灯で溢れた街並みを駆け抜ける。窓越しに外を眺める横顔は見慣れたものだ。僕らだけの居心地に、会話要らずにそう思う。気がついたころに、見覚えのあるバス停が視界に入り込んだ。そこらに設置されたボタンを押してバスを停車させ、僕らは硬いアスファルトに足を乗せた。
「ここまで来ちゃったけど、私の家……」
唐突にぶつけられた台詞は、僕の予想していた通りだった。
「ねぇ、クリスマスって、他にどんなことすると思う?」
ポカンとした表情に、わからない、と思っていることが伝わる。
「ま、いいから着いてきてよ」
坂道を上るときの僕らの口数は少なかった。彩音が何を考えているのかわからなかったが、僕自身は何かを話せるほどの元気はあまり残っていなかった。
「クリスマスってさ、ツリーを見たり、キラキラしたイルミネーションを眺めるのも良い過ごし方だと思うけど、僕はその夜が好きなんだ」
玄関の鍵を回す。
「あんなに綺麗なものを見た後は、やっぱり美味しいものが食べたいじゃん?」
ガチャリと音を鳴らし、ドアノブを引っ張って部屋の中へ彩音を案内する。電気をつけて、ワンルームの部屋へ歩いてもらい、僕は続けて話した。
「あとはやっぱり、プレゼントかなって」
テーブルには手のひらサイズの百円ショップで購入したクリスマスツリーと、同じくらいの大きさをした小包を添えてきた。彩音はどういうことかわからない、と言った反応だ。
「とにかく座ってよ。今からご飯用意するからさ」
台所の冷蔵庫からスーパーで買った骨付きのチキンとお惣菜、保温状態にしてあった白米をよそい、テーブルへ運ぶ。この部屋にふたり分の箸が置かれるのはいつぶりだろうか。
「これ……」
呆然と僕を見つめる彩音の帽子を外し、ベッドの上に置く。
「ずっと帽子被ってると頭暑いよね。ずっと外出でごめんね。食べちゃおう」
食卓に目を戻すと、どうしてか箸に手を伸ばさない。まるで躾を受けた犬のような光景だ。
「どうしたの? 食べよう。……あ、そっかまだ手も洗ってないか。洗面所が……」
廊下の方に指を差すも、涙を拭う姿が、たまらなく苦しかった。
「……冷めないうちに食べちゃおう」
僕の一言で立ち上がり、洗面所で手を洗いながら袖で顔を拭き、先に戻ってもらう。その後ろ姿を見送り、僕自身も手を洗って隣へ戻る。彩音にはテレビの向かいに座ってもらい、僕は廊下に背を預けるような形で腰を落とす。
「手の込んだ料理ではないけど、クリスマスっぽくはなったかな」
「いただきます」
手を合わせ、箸先で摘んだ白米を口に運んで、再び涙を零していた。何度も涙を流しては、拭わずに食べ進める。テレビの音量が少しうるさいくらいに僕らの間に入り込む。僕は、声を掛けることはなく黙々と食を続けた。
少しして、ありきたりな会話を投げ合い、それぞれの食器もからになった。シンクにお皿を重ね、水を被せて僕は冷蔵庫から三角柱に切り分けられたケーキを二つ、取り出す。スーパーでお惣菜と一緒に買った、安っぽいふたり用のケーキだ。
「それ……」
「そう、ケーキだよ」
刺すように見つめる視線は、あまり嬉しそうなものではなさそうに感じる。むしろ、どこか嫌そうな表情だ。
「ごめん、ショートケーキ苦手だった?」
「……ケーキって、私には縁がないって」
「え?」
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