杏色

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杏色

 画面を付けると、颯から引越しを手伝ってくれる旨の返信が送られてきていた。そしてもう一件、メッセージが届いた。 「お誕生日おめでとう」  彩音に言われ、時刻を見ると十二時を一分ほど回ったところだ。颯からの文章も、似たようなものだった。その文末には多すぎるほどの絵文字がずらりと並んでいる。 「覚えててくれたの?」  以前、手紙で互いの誕生日についての話を持ち出していた。僕は今日で、二十歳(はたち)となったのだ。 「うん、だから今日、こっちまで来たんだよ」  小さな紙袋を手渡され、僕はそれを受け取る。 「開けていい?」 「うん。気に入ってもらえるかはわからないけどね」  袋を閉じるテープを剥がし、さらに包装された紙を広げる。中から出てきたものは、白い三毛猫が描かれたマグカップだった。縁に耳を模した凹凸まであり、見ているだけでも癒されるようなものだ。 「ありがとう。すごく可愛い」 「見ていたら、私も欲しくなっちゃって、自分のも買っちゃったの」 「これは欲しくなっちゃうよ」  喜び方がわからないほどに、嬉しさがあった。薄情な人と思われないかが心配だ。心から嬉しいのに、表現の仕方がいまいちわからない。 「貴方、どうして泣いてるの?」  言われるまで気づくことがなかった。右頬に熱を持った水が伝っていた。 「何でだろう」 「そんなに嬉しかった?」  涙を拭って、的外れに思いついたことをそのまま言った。 「ドライアイだから、こっそり目薬注したんだ」 「ふふっ、嘘つき。私は黄色のものを買ったの。何だかお揃いみたいになっちゃったけど、ごめんね」  首を横に振って、マグカップを再び紙袋へ仕舞う。 「ううん。ありがとう。これでコーヒーを飲むようにするよ」  微笑む横顔を見るのは何回目だろうか。僕よりも彩音の方がどことなく嬉しそうだった。何度見ても飽きないその表情を眺めるのが好きだった。 「そういえば、彩音は誕生日いつなの?」 「え? 忘れちゃったの?」  冷や汗のようなものが出た。必死に記憶を辿り、手紙のやり取りを思い出す。 「あはは、冗談だよ。教えてなかったもんね」  肩の力がどっと抜けた。安心してからいつなのかを問うと、いつだと思うかと訊き返された。 「うーん、ヒントとかないの?」  彩音は指を顎に添えると、その日は貴方と一緒にいたよ、と言う。僕は深く考える。 「初めて一緒に写真を撮りに行った日?」 「あー惜しい」  あの日は確か、十一月の二週目あたりの日曜だった気がする。 「うーん。わからないなぁ」 「貴方と出会った日だよ」  僕は一拍置いて、声を出す。 「十月の二十五日か!」  そんなに大きな声出さなくても、と彩音は笑っていた。 「じゃあ今年の誕生日は空けておいてね。何を渡すかも考えておかなきゃ」 「無理しなくていいからね」 「まあ楽しみにしててよ」  風のせいか、一段と冷えてきた気がした。 「寒いね。そろそろ行こうか」  僕らはきた道をそのまま戻る。危ないからと言ってマフラーを彩音の首に柔らかく巻き付け、先に下る。転ばないようにと手を差し伸べる。キザなことだと自分でもわかっているつもりではあった。
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