桜色

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桜色

 独りきりで花見をした日から二ヶ月と数日が経った。あれから文字の交換があることは一通もなかった。ダイヤルを回してポストを開ける度に、僅かな期待をしている自分がどこか醜い。何か体の一部が抜けてしまったような、想い出を落としてしまったような、そんな毎日だ。不便なことはないが、何か物足りず、満たされない。実際、最後に坂の上から景色を眺めたのがいつかわからない。  今日の晩御飯は何にしようか、そんなどうでもいい思考が横切る中スーパーへ向かい、一通り必要なものを買い揃えてまた外へ出る。ぼんやりとして生きる日常で、数分前のこともほとんど記憶がない。  桜は散り、屋外で青天井を見ようと顔を上げると枝先の葉が若葉色(わかばいろ)に空を染めている。木々が並んだ公園も、夏への準備期間のようだった。 「あ、桜でんぶ、買い忘れたなぁ」  帰り道、ポツリと呟いた先に見える公園で笑い声が聞こえる。とても品のない笑い声だ。大きめのビニール袋を片手に一つぶら下げ、僕はその公園を通り過ぎる。笑い声は突然に止まった。まるでセンサーに反応する機械でも置いてあるかのようだった。するとヒソヒソと話す声に変わる。内容まではわからない。横目でチラリと確認すると、ベンチを占領するかのように座る同い年くらいの人達がいる。自然と歩行速度が速まる。  公園を過ぎた先で、自分のスニーカーからではない、明らかに知らない足音が僕のすぐ後ろにまで迫っていた。まさかとは思ったが、悪い予感とは稀に当たるものだった。 「こんなところでお買い物の帰りか?」  太い腕で締められた首につっかえて、言葉を出すことができなかった。僕の正面に回り込んだ男女は見覚えがある。長髪の男と、もうひとりは金髪で眉毛がほとんどない女だった。 「本当だ、タクヤの言った通り、あんときの奴じゃん!」  僕は引きづられるように、通り過ぎたばかりの公園へ連れ戻される。ベンチに座らされ、ピアスだらけでドレッドヘアの男は正面から背もたれに片足を乗せて僕の逃げ場をなくした。膝の上に乗せたビニール袋の中を覗くと、しょうもねぇ、と言い放ち唾を吐いた。 「随分と前はお世話になったよ。あの後サツから逃げるのも意外と苦労してね」 「ウチは別になんとも思ってないんだけどさ、タクヤ、一回怒ったらしつこいんだよね」  女がそう言い終わると、僕の左頬には激痛が走った。大きく揺れる世界、地面が九十度回転したと思った勘違いも、僕が横たわっているのだと時間を置いて理解した。胸ぐらを掴まれ、僕は半分宙に浮いたような感覚だった。口の中に血の味が広がる。  頭突きで飛ばされる頭部、ローキックを受ける脇腹、体の隅々までが痛みというもので満たされていく。唾をかけられ、罵られる声にも反応できない。
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