藍色

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藍色

 昨日実家に帰省してまで手に入れたものをリュックへ詰め、僕は徒歩一分ほどの集合場所へと向かう。指定された時間の五分以上前に家を出たにも関わらず、彼女の狭い背中が寂しげに僕を待っていた。  何も言わずに近寄り、声を掛けようと空気を肺に送り込んだ瞬間、坂道へ身体を向けたままの彼女に言葉を被せられた。 「ちゃんと来てくれたんだね」  吸い込んだ息をほっと吐き出した。 「どうして、話しかけてもいないのに僕だってわかったの?」  彼女の横顔がわかる位置に移動して、その口元を確認する。深く被った帽子が、今日も鼻より上を見せてくれない。 「なんとなく。勘だよ」 「じゃあ僕が追っていた日も勘なの?」 「やっぱり追ってきてたのね」  ここでようやく彼女の顔が僕へと向いた。 「いや……うーん……」  うまい返しが見当たらず、苦笑いしかできない僕は詰め寄られているような気持ちで、少し気まずかった。 「まあいいよ。私も怒っちゃったし。おあいこってことで」  あの日と同じで、あまり笑わない人だなと思う。住宅から飛び出す千歳緑色(ちとせみどりいろ)の木の葉が風に揺らされ、ざわざわと不気味な音を立てていた。夏が終わったばかりで、不自然なほどに過ごしやすい。 「それで、どうやって色を探すの?」  期待をしているような、呆れたような、そんな口元だけが見て取れる。僕は背負っていたリュックをお腹の前で抱え、中に腕を突っ込んで一眼レフカメラを取り出す。 「昨日、実家に帰ってこれを持ってきたんだ。お祖父ちゃんから貰ったものだから、少し古いけど、性能は悪くないと思う」  カメラに結ばれた紐ストラップを首に回し、電源のボタンを摩る。最新のものとは感じない、少し歳をとったような見た目だ。 「そのカメラで、色が見えるの?」 「……わからない。けれど、お祖父ちゃんが昔、このカメラには魔法のようなものがかけられているって言ってたんだ。冗談だったかもしれないけど、何か役に立つかもしれない」  そう言うと、彼女はこの日初めて僕と目を合わせてくれた。 「楽しみだね。私はてっきり、本でも持ってくるのかと思ったよ」 「本?」  僕は首を傾げて尋ねる。 「……ううん、何でもない。どこか行き先は決まっているの?」  本とは、何のことなのだろうか。しかしそれ以上に問い詰めることはしなかった。 「そっちは行きたい場所とかある?」  彼女が首を横に振り、僕は密かに安心した。 「秋を撮りに行こう」  僕らはバスで数十分ほど移動し、大きめな市営公園の前で車内のボタンを光らせた。 「ここは?」 辺りを見渡し、不思議そうな表情を浮かべる彼女に、勘を頼りに歩き出す。 「僕もここは初めて来たんだ。友達が昔、この場所に来たことがあるらしくて、どこか良いところはないかって聞いたら勧められたんだ」  道路へとはみ出す山吹色(やまぶきいろ)のイチョウが鮮やかに空を隠している。僕に映る光景と、彼女が感じる世界は全く別物という事実が未だに受け入れられない。  公園内へ足を踏み入れ、探索するように直感で道を進む。目的の公園ではないが、ここも素敵な場所だ。土を隠し切ろうとするほどの落ち葉と、名前もわからない毛虫がゆっくりと歩いているのを見つけ、僕はようやくカメラの電源をつけた。 「この黄色(きいろ)とか茶色(ちゃいろ)の葉っぱ、小さいけれどしっかりと生きようとする虫が、秋の色の一つでもあると思うんだ」  僕は酸っぱいような、明るい色のイチョウの隙間から空を覗かせる景色へ、レンズを向けた。カシャっとシャッターを切る音があたりに優しく響く。 「……えないの」  ぼそっと呟く彼女の小声が、耳まで辿り着かない。 「え?」  彼女はカメラを向けたレンズと同じ方向を見上げてもう一度口を開いた。 「何にも見えないの。空も、木も、星も、食べ物も、花も、みんな灰と同じ色にしか見えないの。貴方も」  彼女の口から抜けるように溢れる言葉にはいつも重みを感じていた。今日の彼女も、沈んだ心が見てわかる。 「うん、だからこそ君に色を見せたいんだ」 「どうして貴方は私に構うの?」  立ち尽くす彼女の背丈は僕の目線よりも低かった。しかしその強い目線は僕を拒絶しているようにも思える。 「君と一緒にいるべきだって、そう感じるんだ」  彼女の表情は読み取り切れない。それは深く帽子を被っているせいだろうか。僕が再び歩き出すと、迷子になってしまった子どものように後ろに付いて足を運ぶ。  枯葉が擦れる音に耳も慣れてきた。バスでの移動中に太陽を隠していた大きな雲も晴れ始めてきている。 「この辺、車が少ないわけじゃないけど、とても静かに感じる」  僕の背中に、語りかけられた。 「そうだね。歩いている人が少ないからかな?」 「うん、すごく心地いい」  そしてふたりで狭くなった道へ入り、横並びになった。彼女はまっすぐ前だけ見ているようだ。季節外れの、仕舞い忘れられた風鈴が一つ音を鳴らした。 「その帽子、取らないの?」  彼女は帽子の鍔を指先で摘むと、見えない顔をさらに隠した。 「うん、まだ怖いから……」 「……そっか」  それからまた少し歩くと、子どもたちの高い声が辺りに響き渡っている。小学生にも満たない、小さな子達だ。 僕の背後に身を寄せる彼女は、全てに対して怯えているようだった。 「子どもも怖い?」  顔を振り向かせ問うと、彼女は黙ったまま頷いた。この人にとっては、全ての人やものが自分のことを攻撃してくる対象に見えるのだろう。それだけ、他人と違う存在というものは苦しいものなのだろうか。僕らは会話を交えず、遊具で遊ぶ子どもたちの前を通り過ぎた。優しく冷たい、冬混じりの風が彼女の髪先を悪戯に揺らした。  市営の公園を抜け、道路を渡って木造の歩道へと移る。道が狭いせいか、無理に作ったような歩道だ。僕は歩道に向かってレンズを見せる。彼女も僕の後ろで立ち止まり、シャッターが切れる音が鳴るのをただ待っていた。そして僕がカメラから顔を遠ざけると口を開いた。 「こんなところを撮ってどうするの? 何もないじゃない」 「何もないからいいんだよ。写真って、綺麗な景色とか、思い出として残すものも良いだろうけど、自分たちが通った道を記念に残すことも、またカメラの良いところだと思うんだ」  振り向くと、彼女は地面に落ちた枯葉を見つめている。僕の考えが、納得できていないような表情だ。そして僕は、彼女を前に歩かせた。 「ねえ、そこに立ってよ」 「どうして?」 「君の後ろ姿、君に見てほしいんだ」  返事のない小さな身体は僕を追い抜いて、背中をこちらに向けてポーズも取らずに立ち尽くす。レンズを覗くと強い風が彼女の朱色(しゅいろ)東雲色(しののめいろ)萱草色(かんぞういろ)などが入ったチェックのマフラーが、大きく靡いた。彼女は少し荒く揺れる横髪を、左手で耳にかけ、顎をマフラーの中に浅く埋める。僕がその姿に見惚れていると、まだ撮らないのかと訴えるように目を向けられる。気が付くとカメラを僕は降ろしていた。しかし自然にレンズを向けたまま、ボタンを押してしまっていた。  僕の瞳に映る、紅葉の背景に囲まれた彼女はとても美しかった。この人と出会ういことが、自分の人生で必然的なことだったのだと、改めて教えられたように。
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