銀色

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銀色

「…………ねぇ」  久しぶりに聞いたような彼女の声は、寒さのせいではない震えた声だった。 「ん?」 「私と一緒にいて、嫌な気持ちにならないの?」  彼女の見えない表情へ、その愚問に答える。 「うん、落ち着くよ」 「そう……、関わりたくなくなったら、いつでも離れて良いからね」  重い言葉を軽々しく使うその心が僕にはわからない。ただ、自分の考えを伝えることしかできなかった。 「そんなことしないよ。君の方こそ、僕と関わってくれるんだね」 「ええ。他に話せる人がいないもの」  彼女は少しだけ俯いた。 「家族は?」  言葉を奪われたように黙る彼女に、ただ察してごめんと謝ることしかできない。 「名前」 「……え?」 顔を向けても、彼女はずっと遠くのどこかを見つめている。 「名前、幸助って言うんだね」 「うん、そっちこそ彩音さんだったんだね」 「さん付けはなんか嫌」  柔らかな秋の風が、僕らの髪を揺らして沈黙を運ぶ。 「写真……撮ってみる?」  差し出されるカメラを見つめる彩音は、ゆっくりとカメラの底を受け取った。 「……重い」 「古いからね。これ、首にかけて」  僕は彩音の首に紐ストラップを掛け、カメラの持ち方と、シャッターの切り方を教えた。 「これ、頭が蒸れてきちゃったから持っててもらえる?」 「うん」  僕は彩音の帽子を膝の上に置いた。左目を瞑って、レンズに右目を通す姿はとても様になっている。僕はどこかホッと安心して力が抜けた。シャッター音が一つ、僕の耳に届いた。空を自由に引き裂く飛行機が音を被せるのを見届け、再び彼女に気を向ける。 「どうしたの⁉︎」  左側の瞼を開き、右目はレンズ越し、左目は肉眼でその光景を確かめている。そしてその瞳からは行き場を失ったような涙が零れている。 「どうして……色が……あるの……」  途切れ途切れの一言に、僕自身も言葉が見つからない。 「葉が……灰と同じ色じゃない」  カメラを顔から離し、立ち上がった彼女はキョロキョロと何かを探すように辺りを見回している。 「色がわかるの?」  ようやく声を引っ張り出せた僕は彩音と視線を引き合う。 「全部、じゃない……けど一部の葉に色がついているのがわかる。あと、あそこの家の屋根と、近くの家の壁が白色(しろいろ)でも黒色でもないのがはっきりとわかる」  冗談とは思えない、驚きと喜びを混ぜたような顔つきが、僕の胸に深く印象を刺さした。 「どうして急に?」 「わからない……けど、このカメラでここの景色を撮ったと同時に、色が少しだけ見えるようになった」  彩音の話を聴く限り、判別できるようになった色は黄色と、それに似た色のようだ。トリガーはカメラだったのだろうか。力が抜けるように再び座り込む彩音に、僕は写真を確認しようと提案した。 「やっぱり、この写真からハッキリとわかる。貴方が撮った他の写真にも、色がある」  矢印のボタンで今日撮影した写真を見比べると、やはりさっきの一枚がきっかけのようだ。帽子の上に落ちた葉、木造の歩道にカーペットのように散らばって敷かれた葉、どの写真を確認しても、紅葉の黄色しか見えないらしい。 「他の写真はないの?」  肩を寄せ合い、数インチの小さな画面で確認していると、彩音に問われる。 「うーん、今日までこのカメラ自体使っていなかったし……あ……」  ボタンを押し進めていると、自分の記憶にはない写真が現れた。これは、どこなのだろうか。しかしもっと不思議に感じたのは、背景を掴むように写された右手だ。随分と老いていて、皺の刻まれた手の甲が撮られる意味を理解できない。 「これは……お祖父ちゃんが撮った写真かもしれない」  このカメラを受け取った時、すでにSDカードが挿入されていた。つまりこの記録されているものはお祖父ちゃん以外に撮った人は考えられない。 しかし、この手が何を意味しているのかはわからない。他のものを数枚見比べても、綺麗な風景には必ずその右手が映されている。 「ねぇ、これ、おかしくない?」  彩音の一言に僕は、え? と訊き返す。 「だって、右手でボタンを押して写真を収めるんだよね?」 「……あ!」  この手は撮影者とは別人ということに気づかされた。シャッターボタンと同じ側の手が映ることは不自然でしかない。 「これは……誰の手だろう……。明日、お祖父ちゃんの家に行ってみるよ」 「明日? 学校とか仕事は?」 「こんな一大事に大学なんて行ってる場合じゃないよ!」  この一言に、キョトンとした顔を浮かべて、数秒置いた彩音はマフラーに顎を沈めて肩を震わせ始めた。 「どうしたの?」 「……ふふっ……あはは! 変なの」  吹っ切れたような笑い声を響かせ、目を細めて浮かべる笑顔は、初めて見せてもらう心からの表情だと胸に伝わる。 「次の休みでもいいのに……そんなに急いで……ふふっ……」  彩音の釣り上がった口角が、自然と僕の頬を緩めていることに気がつく。なんだかこの人とは、これから長い付き合いになるだろうと根拠もなく確信できた。 「大学は休むよ。明日は二コマだけだし、テストが近いわけでもないんだ」 「貴方が負担じゃなければ、お願いしようかな。私も気になるし」  人と目を合わせて会話をできることが、こんなにも嬉しいものだったなんて、数ヶ月前の自分には考えられないことだ。まるで新しい知識を得たようだ。  ベンチから離れ、僕に背中を見せる彩音を追いように声を掛ける。 「どこに行くの?」  後ろで手を組んで振り返ったその姿は、昼に月明かりを見せられたような、日常にはなかったものをくれたように錯覚させてくれた。 「行こ。もっと色を楽しみたい……。あと……」  照れ臭そうに、少しだけ赤らんだ頬が僕の胸を強く叩いた。 「貴方のこと、少しだけわかった気がする。……今日はありがとう」  この刹那に、僕という人間はこの人のために存在するのだと、また一つ確信できたことだった。
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