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ホームに着くと、実にタイミングよく各駅停車の電車が滑り込んできた。
ナツさんは「ラッキー!」と当たり前のようにその電車に向かっていく。あれ、俺「各停で帰ります」って伝えていたっけ? そんな疑問がわいたものの、彼の慣れた様子からなんとなく察した。たぶん、ナツさんの世界の「青野行春」も、下校時は各停を利用しているんだろう。
帰宅ラッシュ真っ只中とはいえ、車内にはポツポツと空席があった。ただ、さすがにふたつ並んでは空いていない。
さて、どうしよう。バラバラに座るのもなんだし──と悩む間もなく、ナツさんはするりと俺から離れて、空いていた席にひとりで座ってしまった。
「青野、こっちこっち」
邪気のない笑顔で手招きされて、俺はナツさんの前に立った。
まあ、いいか。つり革にぶらさがりながら、他愛のないおしゃべりに興じる。
3駅目に停車したところで、ナツさんの隣の席が空いた。とはいえ、その座席の前には20代くらいの女の人が立っている。ふつうに考えたら、その座席に座るのは彼女だ。なのに、ナツさんは「青野、座って!」と空いたばかりの座席をバンバン叩いた。
いや、さすがにそれは──と遠慮しようとしたものの、女の人は苦笑いして「どうぞ」と譲ってくれた。
なんだか申し訳ない。「すみません」と頭を下げる俺の前で、ナツさんは無邪気な笑顔を見せた。
「おねーさん、ありがと! 大好き!」
すごいな、この人。めちゃくちゃ自己肯定感が高いな。
カフェで星井におかわりをおごらせようとしたときもそうだったけど「譲ってもらえて当然」と思っていそうというか。
夏樹さんならどうしていただろう。絶対、この状況で「座って」なんて言わなかったよな。
というか、そもそもふたつ席が空いていないかぎり、座席に座らない気がする。ふたりで立つことを選ぶか、「青野、座りなよ」って俺に譲ってくれるか。で、俺が「いえ、夏樹さんが座ってください」「いや、青野が座れって」「俺、年下ですし」「年下だからこそだろ」なんて譲り合ったりして。
(やっぱり別人なんだな)
外見は、そっくりそのまま「夏樹さん」なのに。
(……いや、違うか)
この状況って、おそらく本人が身体ごと入れ替わったのではなく、中身だけが入れ替わっているんだよな? じゃないと、今隣にいるナツさんの目は緑色のはずだし。
あれこれ考えていると、右肩が重くなった。いつのまにか、ナツさんが俺に頭を預けるように寄りかかっていた。
「なあ、青野」
甘えるようなその声に、またもや勢いよく心臓が跳ねる。
「あのさ、俺……しばらく青野んとこに泊めてもらうのはダメ?」
さらに俺の右手をとると、ぎゅうっと指を絡めてくる。
待って……待ってください、夏樹さん──いや、ナツさん。
俺、こういうの耐性がないんです。あなたと交際中の青野行春はどうか知りませんが、この世界の俺はこういう行為にまるで慣れていないんです!
半ばパニックになりながらも、俺はかろうじて言葉を絞り出した。
「連泊はさすがに……2日くらいならいいですが」
「どうしても? おねがいしてもダメ?」
「ダメですね」
「……そっか」
ナツさんは唇をとがらせた。そのまま黙り込んでいたかと思うと、今度は「あのさ」と上目遣いで俺の顔を覗き込んできた。
「このこと、親にも言ったほうがいいと思う?」
「というと?」
「オレが違う世界から来て、こっちのオレと入れ替わったってこと。父ちゃんや母ちゃんにも言ったほうがいいのかな」
「それは……」
悩ましい質問だ。せっかくだから最適解を提示したかったものの、そんなもの俺が出せるはずがない。
「星井と、相談して決めてはどうでしょう」
結局、出てきたのは無難な解答だ。ナツさんは「だよなー」とため息をつくと、大きくあくびをした。
「なあ、下りる駅、まだまだ先だよな?」
「そうですね、あと30分は乗ってます」
「じゃあ、寝る」
ナツさんは、さらに体重をかけてきた。
「なんか眠いし。着いたら起こして」
「……わかりました」
そこから1分もしないで、右肩が重たくなった。耳を澄ますと、すうすうと穏やかな寝息。あまりにも無防備すぎて、頭のなかがどうにかなってしまいそうだ。
(いや、落ちつけ……この人は「夏樹さん」じゃない)
ゆっくり息を吐き出し、ポケットのなかのスマホを引っ張り出す。メッセージアプリに新規のメッセージがあった。星井からだ。
──「大丈夫?」
なんて答えにくい質問だろう。
ひとまず「何が?」と「誰が?」どちらを打ち込もうかと迷っていると、またもや新しいメッセージがポンッと表示された。
──「がんばって。いろいろな意味で」
俺は、その文面をマジマジと見た。
交際相手からのこうしたメッセージを、世間一般の人たちはどう受け取るのだろう。ちなみに俺は「ひやかし+本気の励まし」と受け取った。
そう、いい加減お気づきかもしれないが、俺が本当に恋しているのは彼女じゃない。彼女の兄──星井夏樹さんなのだ。
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