第1話

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 カフェを出て、交差点で信号待ちをしている間も、俺の頭はぼんやりと霞がかったままだった。 (そうか……夏樹さんは、今この世界にいないのか)  その事実は、どうしようもなく俺を打ちのめした。よく比喩表現で「胸に穴が空く」なんて言うけれど、今の俺はまさにその状態。さっきから身体のど真ん中を、冷たい風がヒューヒュー吹き抜けているようだ。 「青野、大丈夫?」  星井が、心配したように耳打ちしてきた。 「元気だしなよ。どうせ、そのうち戻ってくるって」 「だといいけど」  どうしよう、二度と戻ってこなかったら。俺は、永遠に「あの人」を失ってしまうのだろうか。  信号が青に変わり、八尾さんともうひとりの夏樹さんが歩きだす。  うらやましい。八尾さんは、親友と二度と会えなくても平気なのだろうか。俺は、こんなにも打ちひしがれているというのに。 「ねえ、お兄ちゃん」  ふいに隣にいた星井が、もうひとりの夏樹さんに声をかけた。 「お兄ちゃんのことだけどさ、これからは『なっちゃん』って呼んでもいい?」 「いいけど、なんで?」 「お兄ちゃんは『星井夏樹』ではあるけど、厳密には『私のお兄ちゃん』ではないわけじゃん? だったら違う呼び方がいいかなーって」  なるほど、こっちの夏樹さんと区別したいというわけか。 「わかった。じゃあ、オレ『なっちゃん』ね!」 「うん」 「ていうか懐かしい! うちんとこのナナセも、昔はオレのこと『なっちゃん』って呼んでたんだよなー」 「やっぱりー? 私のちっちゃいころと同じじゃーん!」  星井は笑顔を向けつつも、俺の背中をギュッとつねった。 「痛っ」  驚いて隣を見ると、軽く目配せしてくる。  そうか──俺にも便乗しろってことか。いや、もしかしたら、もともと俺のための提案だったのかもしれない。 「あの……俺も別の呼び方にしてもいいですか?」 「いいよー、なになに」 「じゃあ──『ナツさん』で」  「夏樹さん」と「ナツさん」──単に一文字抜いただけだ。それでも、この違いは俺にとっては大きい。ふたりの夏樹さんを「別人」として切り分けられるから。 「ナツさんかぁ……なーんかヘンな感じ」  しばらくの間、ナツさんは首を傾げていたけれど、駅に着くころには「まあ、いっか」と受け入れてくれた。 「それじゃ、うちらこっちだから」 「うん、また」  改札をくぐったあとの俺たちは、それぞれ1対3に分かれる。4人のなかで俺だけが反対方面の電車に乗るからだ。  なのに、なぜか夏樹さん──もとい「ナツさん」が、俺の腕にするりと手を絡めてきた。 「オレ、今日は青野んちに行く」 「……えっ」 「青野んちにお泊まりしたい」  なに言ってんの、と星井が呆れたように引き剥がそうとする。 「ほら、帰るよ!」 「やだ、青野んちに行く!」 「そんなのダメに決まってるでしょ!」 「やだ! やだってばやだ!」  意地でも俺から離れようとしないナツさんに、八尾さんはため息をついた。 「どうするんだ、青野」 「はぁ……まぁ、一泊くらいなら」  姉の友人がよく泊まりにくることもあって、急な来訪でもうちの両親はさして気にしない。それに、こんなにも必死なナツさんを突き放すのは、さすがにちょっと気の毒だ。 「お前もたいがい人がいいよなぁ」  しみじみ感心している八尾さんの隣で、星井はなんとも形容しがたい顔をしていた。  その気持ちは、わからなくはなかった。俺の事情を知っている彼女だからこそ、いろいろ思うところもあるのだろう。 「まあ、青野がいいって言うなら」 「やった! じゃあ、行こう、青野!」  嬉しそうにはしゃぐナツさんは、星井よりもよほど女子っぽい。そのことにいささかフクザツな気持ちになりながらも、俺たちは2対2に別れて帰路につくことになった。
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