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「大丈夫だよ...」
僕は息を飲んで、静かに彼女の背中に手を触れた。
なんでもない周りの人間からすれば、僕らも、何でもないふたりに見えるだろうか。
目の前に広がる桜の木に視線を向けた。
ぼんやりと見ていると、桜の蕾が赤く膨らんでいることに気づいた。
周りの人間から見れば、僕らはただの、卒業式に参列した母親と、今日、卒業を迎えたその息子だ。
「みて、桜の蕾が紅くなってる…」
桜の木を眺めたまま、虚ろに、静かに僕は言う。
遠い昔の出来事を思い出した。
確かあれは小学二年生のちょうど今ぐらいの頃だった。
近所の公園に行き、膨らんでいた桜の蕾をむしって、咲いていない蕾をムリやり指で皮を剥いて、開かせてみた事があった。
小学生の僕は、蕾の中身がどうなっているのか気になって仕方がなかったのだ。
ドキドキしながら、指先で丁寧に皮を剥いたら、不恰好なピンクの桜が咲いた。
嬉しくて。桜が咲く前に公園に行って、何度も蕾をむしって無心でやった。
僕にだけ特別に春が訪れたようだった。
人より先に桜が見られることが、僕の手でも花を咲かせられることが、とても幸福だと感じた。
なんだ。僕にも花を咲かせることができる。
失敗したのは捨て、うまくいったのは家に持ち帰って、母の仏壇と自分の部屋のデスクの上に飾っておいた。
そしたら、兄に見つかり父に告げ口された。
「何やっているんだ。かわいそうだからダメだよ。しかもあの木はお前のものじゃない」と父に叱られた。
「じゃあ誰の木なの?」と僕は父に問う。
「区で管理してるものだよ。皆のものだ。皆で楽しむものだよ」
「自分のものならしていいの?じゃあ、僕にも買って」
そうせがんだら、父と兄は僕に心底うんざりするように目配せをした。
納得がいかなかった。
「ねぇお父さん。皆のものなら、皆それぞれの楽しみ方があるんじゃない?変だよ」
と、続けて僕は言った。
「しつこい。どうでも良いから、とにかくやめてくれ」
父の言う事は、間違っているのではないか?本当はあの桜の木は誰のものでもないからこそ、僕のした事はいけないという事なのではないか?
そう思ったが、僕はもう何も言葉にしなかった。僕は変な子供だった。
それからも我慢できず、もう一度したくて公園に足を運んだ。
桜を見た僕は衝撃を受け、途方にくれた。
僕が蕾をむしった箇所だけ何もなくて、木の幹だけがむき出しになっていた。
そこ以外は、美しく可憐なピンク色の桜が堂々と咲き乱れていた。淡いブルーの空を背景に、堂々と。
自分の力で咲いた桜は、僕が指先で咲かせた桜よりずっと美しかった。
僕が咲かせた桜は、僕の部屋のデスクの上でとっくに死んでしまったというのに。
桜の木を囲うように、黒と黄色のロープが張られていた。
“いたずらは警察に通報します”と看板が立っていた。
いたずらなんかじゃなかったのに。
遠く青い空を仰げば、虚しさに涙がこぼれ落ちた。
皆にも春が来てしまったのだ。
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