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原田様の屋敷
私の生家は問屋をしており、少しは名の知れた店で御座いました。
江戸の頃に創業し、明治を過ぎ大正に入っても威勢衰えを知らず繁盛しておりました故、私もそれに釣り合う家へと嫁ぐ事になると思っておりましたが、何故か行儀見習いに出されることになったのが高等小学校を卒業した十五の春の事。
その時にはこのご奉公に父の意図が有るなど何も知らぬままでありました。
行儀見習い先の原田様は江戸の世ではお武家様、大正の今はお役人で、謂わばお大尽で御座います。
ですからお屋敷は大変に立派で、とりわけ広いお庭に植えられた幾種類もの櫻の花が美しく、手習いの合間によく愛でたものです。
ある日それらをぼんやりと眺めながら歩いておりますと、一本の枝垂れ櫻に差し掛かる頃、鈴を転がすような声が私を呼びました。
「千津! それに近付いてはなりません」
その声の主は普段とても穏やかな方なのに、その時は鋭い声で咎められた為にいたく驚いたものです。
「申し訳御座いません、奥様」
「ああ、驚かせて御免なさいね。その木には曰くがあるから近付けたくなかっただけなのよ」
慌てて頭を垂れる私に原田様の奥様、静子さまは歩み寄って優しく抱き寄せてくださいました。
「可愛い貴女が鬼に魅入られては大変ですもの」
「鬼……ですか?」
「ええ。この枝垂れ櫻には鬼が憑いていて、美しい花に惹かれて来た者に取り憑くそうなのよ」
静子さまは御年二十四歳、すんなりとした瓜実顔に艶やかな黒髪、ぽってりとした朱い唇、女の私でも見惚れるような大変に美しい方で、ご主人の清さまとは好き合ってご結婚なされたそうです。
お二人はそれはよくお似合いなのですが、静子さまは御身体が弱くご結婚から五年を過ぎても御子様が出来ない事を気に病んでおられました。
ですから余計にそのような迷信を気に掛けてらっしゃるのだと思いました。
「左様で御座いますか、でしたらもう近付いたりは致しません。申し訳御座いませんでした、奥様」
「奥様は止して。静子姉さんと呼んで頂戴」
美しく笑って、気さくにもそのように仰って下さいます。
私はそれが嬉しくて、すぐに静子姉さまが大好きになりました。
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