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春の足音
春の足音の近づく頃、山あいにあるこの尼寺に弟の正が訪ねて参りました。
逃げるようにこちらに出家してしまった私の身を案じての訪いで御座います。
「姉さん、いい加減に原田様のお屋敷で一体何があったのか、話してはくださいませんか」
私が出家して既に一年近く、正は私を慮り幾度も原田様のお屋敷を訪ねたけれど何事も教えてはもらえなかったとのこと。
当たり前といえば当たり前でしょう。
私とてそうやすやすと口に出せる類の話では御座いませんから。
「何かあの家の者に酷い仕打ちでもされたのではありませんか。そうであるなら然るべき対処をするべきなのです」
弟の正は幼い頃より私をよく慕ってくれておりました故、怒りに震えんばかりの様子です。
しかし私はゆっくりと首を横に振りました。
「いいえ、原田様のせいではないのです」
「ならば何故出家など! 何があったにしろ、姉さんほどの器量であれば良い嫁ぎ先は幾らでもあります。どうか……どうか帰って来ては下さいませんか」
もうすっかり大きくなって店を切り盛りする立場にあるというのに、縋り付くようなその様子は幼い日と同じ。
懐かしさに頬が緩みましたが、私は再び首を横に振ります。
「私はもう此処から出たくはありません」
「何故!? このような生活はご不自由でしょう」
確かに自由とはかけ離れた生活ですが、私には此処を離れたくない理由が有るのです。
「此の寺には櫻が有りません。だから安全なのですよ」
そう申しますと、正は酷く怒りました。
「姉さん、私は本気で御身を案じておりますのに、其のような戯言を……!!」
どうあっても私を連れ戻す心積もりのようで、このままでは埒が明かぬ様子です。
寺の者も困るでしょうし、また原田様にご迷惑をお掛けする事になっても心苦しゅう御座います。
私は意を決しました。
話すにはあまりにおぞましい事ですが……
「ならば私の身に起きたこと全てを語りましょう。私はね、正。櫻の鬼に出会ってしまったのですよ」
ひょうと窓の外で風が鳴り、隙間風が吹き抜けて部屋をひやりと冷やしてゆきました。
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