7

1/3
前へ
/20ページ
次へ

7

 十二月に入り、テレビで毎日のように〝恋するチョコレート〟のCMが流れている。生放送の反響もあってSNSでも話題になり、チョコレートは一時どこの店舗でも品薄になった。  音楽番組への出演も増え、バラエティやラジオへの出演オファーも次から次に舞い込んでくる。砂岡は目が回るほど忙しいのにいつ会っても楽しくてしかたがないという様子だ。  晴之はモデルとしても仕事が増え、暁斗にも単独でCMのオファーが来るようになった。 「暁斗次のCM化粧水のだって?」  レッスンの休憩時間に二人で床に座ると晴之の方から問いかけてきた。 「うん、俺より晴之さんの方が向いてると思うけど」  今度撮影するのは大手の化粧品メーカーが出している化粧水のものだった。〝疲れたあなたを癒すひととき〟というキャッチフレーズで女性と共演するものだ。 「暁斗だって十分向いてると思うよ。暁斗みたいな軟らかい声で〝お疲れ様〟って言ってほしい女はいくらでもいる」 「……そうかな」 「そうだよ」  今回のCMは晴之に向いているな、とも思ったが、同時に夕陽が演じても似合うだろうな、とも思った。夕陽の優しい声で〝お疲れ様〟と言うのを想像して、それを言われたいのは自分なのだと気付き頬が熱くなる。 「暁斗、今兄ちゃんのこと考えてるだろ」 「え」 「図星だな」  くくっと晴之は喉を鳴らして「わかりやすいなあ」と苦笑した。 「おおかた兄ちゃんがCMでもやってるとこ想像したんだろ。俺に向いてる~じゃなかったのかよ」 「それは、本当にそう思ったからっ!ただ、兄さんにも合うなと思って」 「はいはい、わかってるよ」  いつものように頭をがしがし撫でられて返す言葉がない。いつだってどうしても夕陽のことを考えてしまう。  前に電話した時から結局会うこともできず電話をかけることもできていない。だからこそいっそう夕陽のことを考えてしまうのかもしれない。 「晴之くん!暁斗くん!ニュースです!」  静寂を切り裂くようにレッスンルームのドアが開き、砂岡が飛び込んできた。 「どしたの、砂岡ちゃん」 「Eテレビ主催のクリスマスライブに欠員が出て、Solisに代役としての出演オファーが来ました!」 「えっ……」 「ほんとですか?」 「ほんとです!」  砂岡は二人のもとへ駆け寄ると床に資料を拡げて興奮気味に話し出した。 「もともと出演するはずだったユニットの一人が怪我で入院してしまったらしく出演できなくなりまして、そこで代役をSolisにぜひ、と!」 「すげえじゃん」 「うん、すごい」  Eテレビ主催のクリスマスライブは四年前から始まったもので、旬のアイドルを集めて半野外のステージで開催されるものだった。Solisも人気が出始めたとはいえ、まだ若輩ユニットで、テレビ収録での特番への出演依頼はあってもライブ系のオファーは来ていなかった。 「暁斗、やったな、兄ちゃんと共演できるぞ」 「うん、うんっ」  Vesproは開催当初から常連で、今年も例外なく出演が決まっていた。  夕陽とまた同じステージに立ちたい、と思っていたもののこんなに早く叶うとは思っていなかった。 「これからますます忙しくなりますね!」 「そうだな。打倒Vesproだっ」 「はは、べつに倒さなくていいよ」 「おいっ、歌で兄ちゃんをぎゃふんと言わせるんだろ?」 「ぎゃふんて」  晴之が肩を抱き食い気味に問いかけるのを見て、砂岡も「そうですよ!その意気です!」といつものごとく鼓舞してくる。  事情を知らない砂岡も、暁斗の心を知る晴之もただ純粋に暁斗を応援している。ぎゃふん、とはいかないかもしれないが、二人の気持ちに応えたいと思った。 「俺、頑張ります」 「おう、一緒にな」 「はい」  歌で想いを伝えたい、すこしでも夕陽に近づきたい。    ◇◇◇ 「兄さんのところ、行ってくる」  事務所を出る前、晴之に告げると「ん、行ってらっしゃい」と笑顔で見送ってくれた。  なんとなく、今なら話すことができる気がして。新しく始めた仕事のこと、共演できることになったライブのこと、今ならただの兄弟ではなく同じアイドルとして夕陽に笑顔で話すことができるような気がした。  置いて来たままの腕時計も取りに行きたい。一緒に合鍵も返してしまおう。もし駿也がいた場合は出直す。夕陽がいたら、話をする。そう決めて暁斗は夕陽の家へ向かった。  インターフォンを押す瞬間はとても緊張した。でも、いくら待っても返事はなく、不在なのか、と落胆もしたし安堵もした。  腕時計だけでも持って帰ろうと決めて暁斗は合鍵を使って部屋に入った。 「お邪魔しま……あれ……?」  部屋の灯りが点いている。でも物音はしない。  もしかしたら、と思い、慎重に歩みを進めてリビングに入ると想像通りいつかと同じようにテーブルにうつ伏せになって夕陽は眠っていた。  片手に台本を持っているところも同じ。連続ドラマは無事最終回を迎えた。今は来年公開になる映画の撮影が始まったはずで、想い描いたタイトルが台本の表紙に記されている。  隣に腰かけてみると以前と同じようにふわんっとシャンプーの香りがした。でも、前はその香りを嗅ぐと自分と同じだ、とすこし照れくさくなったのが、記憶が薄れてなんだか知らない香りのような気がする。  とくん、とくん、と小さく心が揺れ動く。  夏場ならまだしも冬にひざ掛けもかけずにこんなところで寝たら風邪を引いてしまう。暁斗は周りを見渡してソファにかけてあるブランケットを取り、そうっと夕陽の背中にかけた。そして次の瞬間、夕陽の台本を持っていない左手にふっと視線が引き寄せられた。 「……なんで」  夕陽が握っていたのは今日まさに取りに来ようと思っていた暁斗の腕時計だった。 「兄さん……」 「……あき……」 「っ……!」  どくんっと大きく心臓が跳ねる。夕陽の形のいい唇が薄らと開き、暁斗の名前を呼ぶ。目が覚めたのかと思ったがそうではなかった。また、すう、とすぐに寝息が聞こえ始めて暁斗はほっと肩を撫で下ろす。  でも、一度夕陽の唇に視線を奪われてしまうとそこから目が離せなくなっていた。  暁斗は夕陽のドラマの読み合わせに付き合ったあの日のことを思い出していた。ヒロイン役になり素直に求められて、どきどきして、今思えばあの時夕陽に向けられた言葉や表情を自分はずっと望んでいたのだとわかる。  あの日、夕陽が止めなければ。思い返してどくん、どくんっとどんどん鼓動が速くなる。  吸い寄せられるように暁斗は夕陽の唇に触れた。手で触れるつもりだったのに、気づけば唇を寄せていたことに気付いたのは触れたあとだった。ほんの一瞬のできごとだ。  はっとして慌てて体を離し、目を見開いた。 「……暁……」 「ーーっ、に、さん……起きて……」  交わる視線。同じように見開かれた夕陽の瞳。掌からも背中からも汗が噴き出してくる。一歩、二歩と後ずさろうとすると夕陽の掌がぐっと手首を掴んできた。 「暁斗……」  夕陽の唇が開きかけて、閉じる。その様を見ていられず暁斗は俯いた。今にも涙が出そうだった。  気付いていない、という表情ではなかった。知られてしまった。驚かせてしまった。もしかしたら、それよりももっと。 「暁」 「っ……」  暁斗を落ち着かせるようと昔のように夕陽が優しく名前を呼ぶ。それでも夕陽の顔を見ることができなかった。 「……兄さん、ごめん、ごめんなさい」 「暁、謝らないで、暁」 「ごめん、ごめんなさい、俺が、俺がっ……、ごめんなさいっ」  もう耐え切れなかった。瞼からぼろっと雫が溢れて頬を伝う。  隠し切れない。もうすべて吐き出したい。 「俺は……兄さんが、好きで、……好きでっ、ずっと一緒にいたくて、ただ、それだけだったのに。こんな、キ、スして……兄さんに、普通じゃないことを、したいって、してもらいたいって思ってる。おかしいってわかってる、でも、もう、無理だよ」 「暁……」 「ーーっ……ぅ、……」  夕陽の腕が体を包む。いつも優しく抱きしめてくれた夕陽がぎゅうっと力いっぱい包み込んでくれた。  その事実がどうしようもなく嬉しくて、悲しくて、苦しくて、あとからあとから涙があふれた。  夕陽は暁斗が泣きやむまでずっと抱きしめて背中を撫で続けた。ぽん、ぽんっと子どもをあやすように優しく撫でられて昔に戻ったようだった。  また夕陽を困らせているとわかっているのに夕陽から離れることができなかった。  ひとしきり泣いた後ようやく夕陽の腕の中から解放され、おそるおそる夕陽の顔を見た。  夕陽は涙こそ浮かんでいなかったが、今にも泣きそうな顔をしていた。その表情を見た瞬間、ああ、また傷つけてしまったのだと自覚した。また兄さんを困らせているのだ、と。  夕陽はしばらく黙って暁斗を見つめ、それからゆっくりと口を開いた。 「ごめん、暁。オレのせいだね」 「……兄さんのせい……?」 「そう。オレのせいだよ。暁のこと大好きだから、大事にしたくて、大事にしすぎて、暁の心まで変えてしまった」 「べつに、兄さんのせいじゃない」 「オレのせいだよ」  夕陽はいつもそうだ。一番に自分が悪いと言う。  生まれてから今まで、一度だって夕陽と喧嘩をしたことがない。聞き分けのいい、面倒見のいい兄。お手本みたいな、両親を困らせない、優しいお兄ちゃん。夕陽はいつだって自分を責める。 「もう充分に反省したつもりだったのに、だめだね。いつもうまくいかない。オレのせいで、また暁を泣かせた」 「兄さんのせいじゃないって」  同じ言葉しか返すことができない。頭の中がめちゃくちゃで、なんと返していいのかわからない。でも、夕陽も譲らない。  そして、ずっと暁斗が求めていた答えを夕陽は告げた。 「暁、どうして置いて行ったのって言ったよね。あれは、暁のためだった」 「俺の……?」 「そう。これ以上一緒にいたら〝普通の兄弟〟でいられなくなる。そう思って離れようって決めたんだよ」  普通の兄弟、その一言を夕陽が告げた瞬間、ああ、やっぱりそうなのか、と暁斗は思った。一番想像したくなくて、でも、そうなのかもしれない、とずっと考えていたこと。夕陽にすべて話すということは、こうなる可能性を想像していたはずなのに、心の一番やわらかいところがぎゅうっと押しつぶされていくのがわかる。 「離れたのに、結局オレは暁斗がずっと大事で、心配でしょうがなくて、どの程度が正解かなんてわからなくて、悩んでた。暁斗にさみしかったって言われて嬉しかった。でも、そうやってずっと一緒にいたらだめなんだってわかってた。わかってたのに、甘えて、離れられなくて、結局傷つけて、本当にひどいお兄ちゃんだよ」 「そんな、ぜんぶ悪いみたいに言わないでよ」  夕陽が告げる言葉ひとつひとつ、心の中に刻み込まれていく。悲しい、苦しい、つらい、さみしい。一人で悩ませたこと、自分を責め続けさせたこと。ぜんぶ悪いなんて、思われたくなかった。 「兄さんは、ずっと、俺を守ってくれたよ。兄さんは俺がいたからアイドルになることができたって言ったけど、俺だって兄さんを追いかけていなかったらここまで来られなかった。兄さんと一緒にいたくて、夢ができて、歌っていられるんだよ」 「暁……」 「ほら、そうやって兄さんが暁って呼んでくれるの、それ一つだって俺は嬉しくてしかたがないんだよ」 「っ……」  夕陽ははっとして掌で唇を覆った。本当に無意識だったのだろう。夕陽の優しさが悲しかった。それでも、夕陽を責めることなんてできない。ずっと知りたいと思っていた夕陽の心をようやく知ることができたのに、さみしくて、つらくて涙が込み上げてくる。  夕陽が好きで、好きで、苦しい。 「兄さんがぜんぶ悪いなんて、そんなことないよ。兄さんはいつだって俺の憧れで、俺が甘えてばっかりで、兄さんの手を離せなくて、だから、こんなふうになったんだと思う。一人で謝らないで」  今まで告げられなかったことをすべて言葉にする。夕陽は暁斗の言葉をじっと聞いていた。やっぱり泣きそうな顔をするから笑ってほしいのにな、と切なくなった。 「兄さん、俺、もう一人でも平気だよ」 「っ……」  夕陽の瞳がまた大きく見開かれる。また傷つけたかな。でも、言わなければいけない。 「いや、正確に言うと違うかな。俺はアイドルって仕事ができて、晴之さんがいて、マネージャーがいて、応援してくれる人がいて、だから、一人じゃないよ」  一人じゃない。だから大丈夫。 「兄さんは、兄さんの好きに生きていいんだよ」  ああ、どうしてこの人が兄さんなのだろう、とまた思った。兄弟じゃなければ、もうすこし違ったかな。  でも、兄さんじゃなければ、そもそも出会ってもいなかったかな。 「暁」  夕陽はぽつり、と告げて、ゆっくりと瞼を閉じた。 「ごめん、ごめんね、暁斗」  ああ、もう暁って呼んでもらえないのかな。そう思ったらまた涙が溢れそうになり、ぐっと奥歯を噛み締めてがまんした。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

63人が本棚に入れています
本棚に追加