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 外はまた冷たい雨が降っていた。駅まで送っていくと言う夕陽を玄関に留めて傘だけ借りて外へ出た。  ずぶ濡れになれたらいっそすこしは心がすっきりするかもしれないと思うのに、そんなことをすればたくさんの人に迷惑がかかるかもしれないと心に歯止めがかかる。ただの高校生ならよかったのにと初めて思った。アイドルでいてよかったと思ったばかりなのに。 「あ、また時計置いてきた……」  夕陽にもらった腕時計。取りに行ったはずなのに心ごと置いてきてしまった。でも、もう取りには帰れない。  向かう場所は晴之の家しかなかった。 「いっしょじゃなかった」 「え……?」  事前に連絡を入れるのも忘れたのに晴之はためらいなくドアを開けてくれた。晴之はもう寝間着のトレーナーに着替えていたけれど、寝るところだった?なんて聞く余裕はなかった。それでも晴之は暁斗の表情を見て、始めの一言を聞いた瞬間「とにかく入れ」とすぐに部屋の中に招き入れた。  暁斗をソファに座らせて晴之はキッチンに向かい、ホットココアを作ると隣に座ってそうっと差し出した。 「ほら」 「……ありがとう」 「ん」  晴之からは何も聞かない。ただ黙って隣にいてくれる。だからきちんと話そうと思うことができた。 「兄さんに、キスした」 「え……?」 「するつもりなんてなかったけど、家に行ったら兄さん寝てて、それで、寝言で名前呼ばれて、気づいたらキスしてた。がまんできなかった」 「そう、か……」  暁斗の顔を見つめたまま、晴之はゆっくりと答える。 「もう黙っていられなくて、全部話したよ。兄さんが好きだって、キスしたくて、〝普通の兄弟〟じゃしないことを兄さんにしたいし、されたいって、だから、ごめんって」 「……うん」 「そしたら、ようやく兄さんが置いて行った理由、教えてくれた」 「なんて?」 「これ以上一緒にいたら〝普通の兄弟〟でいられなくなる、そう思ったからだって。俺が心配してたこと、そのまま、言われて、もう、頭の中真っ白になって」 「うん」 「兄さんは自分が悪いって責めて、でもそんなの嫌で、俺だって悪いのに……。だから、俺はもういいから〝兄さんの好きに生きていいんだよ〟って」 「言ったのか」 「うん」  すべて話したら枯れたはずの涙がまた溢れてきた。  晴之ははあ、と深くため息を吐いて、片手で顔を覆う。 「ごめん」 「謝んな。謝らなくていい」  暁斗の肩を抱き寄せて晴之は「なんで」と渋い声を出す。 「なんで暁斗はそんながまんづよくなっちまったんだろうな」 「っ……べつに、がまんづよくない」 「強いだろおまえは。十分すぎるぐらい。そんでめちゃくちゃ良い子だよ。良い子すぎて、聞き分けが良すぎて心配になる」 「う、うー……」 「あーあーもう、好きなだけ泣け」 「あ、りがとうっ……」  晴之の腕に抱かれ、また枯れるまで泣いた。その間晴之はなんども暁斗の頭を撫でて「よく頑張ったな」「つらいな」と声をかけてくる。それがまた心に沁みて泣き腫らした。 「ほら、暁斗。冷やしとけ」 「……う、ん」  晴之は一旦離れて戻ってくると今度は濡れタオルを差し出した。どこまで優しいんだろうこの人は。 「明日撮影ない日でよかったな」 「……うん……」 「ん?」  晴之をじっと見つめると晴之は「なに?」と苦笑する。 「晴之さん、なんで恋人いないの」 「は?なんで今その話」 「いや、だってめちゃくちゃ優しいし、もとからモテるし」  話すだけ話して、泣くだけ泣いて、すっきりした心にようやく余裕が生まれて問いかけたことだった。ずっと気になってはいた。 「まあ、そんなこと聞くぐらい元気になったってことか?」 「ん、まあ……ありがと」 「はいはい」  ぽんぽんと軽く暁斗の頭を撫でて「恋人なあ」と晴之は苦笑する。 「モデルの頃はもうちょい遊んでたけど、今はまあアイドルの仕事楽しいし、そういうのは別にいいかなって時期」 「そう、なんだ」  遊んでた、は初耳だった。 「ん、だから今は仕事の相方であるおまえに元気になってもらえばおっけーってわけよ」 「頼りにしてます」 「おう、頼りにしとけ」  アイドルになったおかげで一人じゃないと思えるようになったのは本当の話。もちろん夕陽も暁斗の味方であることには変わりはない。それはわかっている。両親も暁斗を大事に想ってくれている。ただ、今の自分を保つための心の拠り所はやっぱりアイドルという仕事にほかならない。  夕陽とはもう〝普通の兄弟〟ではいられない。そうありたいと願っても、夕陽と二人になってしまえばどうしたって今日のことを思い出してしまう。 「俺にはやっぱり歌うしかないのかな」  いつの日か憧れた夕陽のように。たとえ普通の兄弟でいられなくても、夕陽に幸せになってほしい、笑顔になってほしいという気持ちは変わらない。 「俺、アイドルやっててもいいかな」  ぽつり、と暁斗がこぼした一言に晴之はがしがしっと強く頭を撫でる。 「いいに決まってんだろ。そうじゃなきゃ俺が困る」 「……うん、ありがとう」  夕陽の心は変わらない。それでも、歌を歌い続ける。ほんのわずかでも暁斗の歌声が夕陽を笑顔にできればいい、今はそう願うしかない。
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