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「おはようございます」
「ん、はよ」
控室に入るとすでに晴之が座っていてヘアメイクをしているところだった。
「晴之さん早いね」
「まあな。なんか落ち着かなくて」
「こんなに大きなライブ、初めてだもんね」
「ああ」
デビューから一年とすこし。今までもテレビの特番で複数のアーティストと共演することはあった。でも、今回のようにライブ形式でアイドルばかりが集まるというのは初めてのことだった。
「つーか、雪だったな」
「うん、寒いね」
昨日に比べればぐっと気温が下がり夜中から降り続いた雪が少しずつ地面に積もっている。
「ステージに屋根があってよかったですよね」
スタッフの一人が話に入ってきて、晴之も「そうそう」と頷く。今回使うステージはドーム型で会場内はほとんど屋根で覆われている。ただ半野外というだけあって観客席の周囲に壁がなくそこから雨や雪が入ってくる。
「あんまり積もらないといいんですけど。雪はそうでもないんですが、風があるので観客席の整備も大変そうでしたね」
スタッフの顔も不安げだ。
「あー、まあ降ってないのがいいけど。でも、日中には止む予報なんだろ?」
「はい、そうみたいですね。今上の人たちでどうするかって話し合ってます」
「そっか」
「スケジュールも予定通り進めるんですか?」
暁斗が尋ねるとスタッフは「その予定です」と頷く。
「ひとまず様子見だな。臨機応変にやろう」
「そうだね」
日中のライブだったことが不幸中の幸いだった。雪の粒もさほど大きくない。積もると言ってもじきに観客の入場も始まり通路は踏み均されて地面が濡れる程度で済みそうだ。
「やれることをやるだけだ」
「うん」
「挨拶、行くか?」
誰に、なんて聞かなくてもわかる。
「今、みなさんバタバタしているので、最終ミーティングでお会いするぐらいになりそうですよ」
「そうなんだ」
いつの間にやって来ていたのか砂岡が会話に加わる。
「まあ、それならそん時でいいか」
「……うん」
晴之もほっとしているように見えるのはこの前のことがあって気まずいからだろう。暁斗も内心安堵していた。事情を知らない砂岡はそのまま今日の流れを改めて話し始めた。
暁斗はそれを聞きながら夕陽のことを考えていた。
夕陽の歌をまた間近で聞けることが嬉しい。夕陽に直に歌を届けられることが嬉しい。次またいつ同じような機会が巡って来るかはわからない。
「悔いのないようにやろう」
「ああ」
晴之も砂岡も強く頷く。
運命の巡りあわせか、Solisの出番の直後がVesproだ。
夕陽に想いを届けたい。何度も、なんども強く願う。
◇◇◇
雪は正午近くまで降り続き、午後になってようやく降りやんだ。交通規制がかかるほどの影響はなく観客席も徐々に埋まっている。
開演は十四時。十三時を過ぎて最終ミーティングで夕陽とも顔を合わせた。いつかと同じように暁斗は晴之の後ろにいたが、ふとした瞬間視線が合い、思わず暁斗は夕陽の顔をじっと見つめてしまった。
「兄さん……」
隣にいる晴之にさえ聞こえないほどの小さな声で囁いたのに夕陽はわずかに目を見開いて、それからへにゃりと眉尻を下げると小さく笑った。
――暁。
「っ……」
唇がわずかに動き、確かに名前を呼ばれたのがわかった。でも、すぐに夕陽はゆるく首を振って、視線をそらした。話をきちんと聞かなくちゃとたしなめられたのだと思った。確かにその通りだ。暁斗はスタッフの話に耳を傾けながら夕陽の表情を思い出していた。
「暁斗、さっき兄ちゃんとアイコンタクトしてただろ」
「……うん、ごめん、集中してなくて」
解散と同時に晴之が問いかけてきた。すぐに認めれば晴之は「まあ、いいよ」と苦笑する。
「変わったことと言えば寒いから出番まで十分温かい格好をするように、ってことと、あと雪がすこしまた降りだしたから、気を付けてって」
「わかった」
控室に戻る道中、外を見てみれば確かにふわりふわりと雪が舞っていた。はあ、と息を吐くと空気が真っ白になる。
「風邪引かないようにな」
「ん、晴之さんもね」
衣装の上からダウンコートを羽織り、控室の椅子に座る。
じっとしているとステージの方からオープニング前のBGMが漏れ聞こえてくる。瞼を閉じて耳を澄ませば観客のざわめきも聞こえてくるようだった。
夕陽が見せた表情、〝暁〟と呼ぶ声。困ったような笑みではなくてきちんと笑顔にしたい。
とくん、とくん、と心臓が音を奏でる。
「Solisさん、もうすぐ出番です!」
「わかりました」
「行きます」
一時間後、スタッフに声をかけられて晴之がすぐに返事をする。暁斗も頷いて、二人でステージに向かった。
今日歌うのは三曲。デビュー曲から始まりラストは秋に発売された〝恋するチョコレート〟の曲だ。衣装の色調は新曲を公開した生放送と同じ赤と白。でも、今日のものは以前よりずっとラフになっている。ヒートテックの体にフィットしたインナーに白のパーカー、差し色で赤、そして赤茶色のショートブーツ。自分たち自身が恋をされるチョコレートになる。
「心臓ばくばく言ってる」
「うん、俺も」
「暁斗、見た目じゃわかんねーな」
「そうかな」
「そうだよ」
舞台袖で晴之が快活に笑う。その笑顔を見るとほっとした。
ステージに視線を向ければ、観客席の向こうから雪が舞ってステージの方まで伸びて来ている。寒さの中で観客はセーターの上にマフラータオルを首に巻いているような女の子でいっぱいで、薄着すぎるんじゃ、と思ったけれど、誰も寒そうな顔はしていなかった。会場内の雰囲気はすでに温まっている。
前のユニットの曲が終わった瞬間、ペンライトの光が赤と白に入れ替わる。
「みんな、俺達のこと、待ってるんだね」
「そうだよ。応えてやろう」
「うん」
ステージの照明が一旦暗くなり、煙幕の中、中心に立つ。
次の瞬間、イントロの始まりと同時に一気にライトが二人を照らし、観客席からは歓声が飛びかった。
ステージ全体を使った演出でドーム中のファンに向かって歌い、踊り、手を振り、笑顔を届ける。舞い散る雪の中、ペンライトの光がきらきら光り、光の海の中を駆け回っているような気がした。
〝晴之〟、〝暁斗〟、ファンの唇からなんどもなんども紡がれる名前。
楽しかった。晴之とステージに立ち、歌って、アイドルでいることが楽しかった。
「暁、あと一曲、踏ん張るぞ」
「ん」
最後の一曲。三曲の中で一番テンポが速く、振り付けも難しい。それでも今はできる、と思った。
音楽が鳴りやみ、静寂の中、暁斗は舞台袖を見た。そこには夕陽がいて、じっとこちらを見つめていた。
「兄さん」
「暁斗、今は俺の方見ろよ」
「っ……わ、かってる」
晴之がくつくつと笑う。頬をするりと掌で撫でられた瞬間、観客席が色めき立つ。
「わかっててやってる?」
「当たり前だろ」
ほんの十秒ほどの刹那の会話だった。
暗闇と静寂を切り裂くようにライトと音楽が溢れ出す。
想いはすべて歌に乗せる。そう心に言い聞かせて暁斗は歌った。
ステージの上を雪が舞う。ふわり、ふわりと。
白で溢れるその隅に夕陽がいる。
いつまででも歌っていられるような、踊っていられるようなそんな気がした。
ラストのサビを終えて、あとはステージの中央に戻るだけ。一歩、一歩とステップに合わせて戻って行く。
一瞬の出来事だった。
「え……」
マイクが拾わないギリギリの音量。それでも晴之は気付いていた。
視界が揺らぐ。どっと全身から汗が噴き出るのがわかった。
暁斗はまだステージの端にいて、晴之はずっと遠い。
あとはもう間奏と数フレーズだけで終わるというのに、脚がもたつき、声も出ない。やばい、と思った。
徐々にぼやけてくる視界の中で、今更自分の限界に気付く。
眠れている、食べている、休んでいる。晴之に聞かれるたび、口では大丈夫だと言っていたのに、本当は違った。大丈夫だと思いこもうとしていた。
体も、心も、限界だった。今この瞬間にそんなことに気付くなんて、ばかだな。
どうしよう。どうしたらいい。わからなかった。
観客席がどよめく。晴之が駆け寄ってくるその中で、声が響いた。
「暁っ……――!」
マイクはまだオンになっていなかったから、きっと聞こえたのは暁斗と晴之とそして後ろから駆けてくる駿也だけ。
「……兄さんっ」
「暁っ」
ようやくかすかに声が出た。
気付けば夕陽の腕に抱きとめられて、体勢を立て直される。
視界の端で駿也が晴之の側に向かうのが見えた。
「あと十秒耐えろ」
「……わかった」
夕陽に背中を押され、一人で立つ。もう動けないと思ったのに足は自然とステップを踏んだ。あと十秒、そう言われたからか。いや、そうじゃない。
間奏が開けた、その瞬間。夕陽が後ろで歌っていた。振り付けすら寸分たがわず暁斗の動きに合わせて。それは駿也も同じで、不服そうな晴之と体格のいい二人が呼吸を合わせてステップを踏む。
これは夢だろうか。現実味が全然ないのに、体が勝手に動く。夕陽の歌に合わせてメロディーが唇から溢れ出す。
迷惑をかけた、一人で立っていられるなんて嘘だった。
それでも、夕陽と一緒にステージに立つことが、夕陽と一緒に歌っていることがどうしようもなく嬉しかった。
観客席はいつの間にかどよめきは消え、先程までよりももっと大きな歓声に包まれていた。
会場は熱狂に包まれた。
ほんの十秒の話。でも、その十秒が濃密で、今日一番の盛り上がりを見せた。
その十秒を終えた後、照明が落ち、暁斗は崩れ落ちた。
「暁ッ……――!」
「暁斗っ……!」
夕陽と晴之の声が聞こえる。二人とも暁斗の蒼い顔を見て、声を震わせていた。でも、夕陽は駆け寄ってこない。暁斗を抱き留めたのは晴之で、夕陽は唇を噛みしめて駿也とともにステージに戻って行く。
「晴之さん、……ごめん」
「ばかっ、今は声出すな」
「……ん」
晴之に抱き上げられて舞台袖にはけた。遠くで真っ青な顔をした砂岡と担架が運ばれてくるのが見える。
失敗した、でも、夕陽が助けてくれた。どうにかステージを続けることができた。緊張の糸がほどけていく。
ステージの上からは聞き慣れた夕陽と駿也の歌声が漏れ聞こえてくる。口ずさみそうになるのを堪えて、暁斗は瞼を閉じた。
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