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 肌寒さに目が覚めた。  暁斗はゆっくりと瞼を開き、ここはどこだったっけ、とぼんやり考える。外はまだ薄暗い。すこしずつ暗さに慣れてきた瞳に空っぽになった枕が見えた。それが夕陽のものだと気付くのに時間はかからなかった。  昨日、昼間から互いの体に触れ合い、繋がって、あの後も二人でしばらくベッドの中で過ごした。年末に両親と話したことや、夕陽が遠征先で見てきたもの、それから今後の仕事の話。他愛ない会話をくり返し、暁斗のお腹がぐうと鳴ってようやくベッドから出た。  夕陽は暁斗の作ったグラタンを何度も「おいしい」と言いながら食べて「またつくって」とねだった。  それから夕方までリビングのソファに並んでテレビを眺め、二人してうとうとして、ゆっくりと時間が流れていった。  夜になってから、夕陽は一緒に寝ると聞かなくて、暁斗の部屋から枕を持ってきて二つ並べ、夕陽に抱きしめられながら眠った。  今は隣に夕陽がいないのに不安な気持ちにならないのは、もう夕陽がどこにもいかないと知っているから。  暁斗はゆったりと体を起こし、周りを見渡した。 「兄さん」 「暁、こっち」  ほんの小さい声だったのにすぐに返事が聞こえた。ベランダに続く窓を半分開けて足だけ外に出すように夕陽は座っている。  ああ、そういうことか。 「俺もそっちに行っていい?」 「もちろん」  夕陽はパジャマの上にカーディガンを羽織っていたけれど、それでも寒そうで、暁斗はベッドの上から毛布ごと夕陽のもとに向かった。ずりずりと毛布を引きずる様子を見て夕陽がくすくす笑う。 「暁、あったかそう」 「あったかいよ」 「オレもいれて」 「うん」  夕陽を包み込むように毛布を分けて、肩を寄せ合う。夕陽の手のひらが暁斗の手のひらを包み込んだ。 「兄さん、手つめたい」 「ごめん、暁、窓開けてて寒かったよね」 「兄さんの方がずっと寒いだろ」  夕陽の心配をしているのに、すぐ人の心配をする。夕陽は朗らかに「オレは、この寒さが好きだから」と笑った。 「じゃあ毛布いらない?」 「いる。いじわるしないで」 「しないよ」  暁斗も夕陽にぴったりと寄り添うように肩に頭を乗せる。 「暁はどこもかしこもあったかいね」 「毛布のおかげ」 「そうだね」  少しずつ空が明るくなっていく。夜が終わり、朝がくる。雲の隙間から光がさしこんで、黒が紺へ、そして白や黄色や橙色が滲んでいく。  またこうして二人で夜明けの空を眺める日がくるなんて思っていなかった。 「俺も、兄さんと一緒ならこの寒さも好きだよ」 「……暁……」  ぎゅっと夕陽の手を握り返す。温もりを分け与えるように、想いを届けられるように。 「ね、兄さん、歌ってよ」 「……いいよ」  夕陽は微笑んで、唇からそうっと音を紡ぎ出す。  有名な歌じゃない、二人のユニットの歌でもない。歌詞すらもない。暁斗がまだ幼い頃、夕陽が暁斗のためにつくった、名もない歌。  暁斗とすごす夜明けのひかりの中で歌う、たったひとつのメロディ。なんども聴いたから覚えている。  そこに暁斗は自分の声を重ねた。夕陽は暁斗を見つめて瞳を見開き、頬を染める。暁斗はその様子に満足してもっと、もっとと歌を繋いだ。楽しかった。心から幸せだった。 「暁、覚えてたんだ」 「兄さんも」 「ふふ、だって、もう何度歌ったかわからないから」  それは、夕陽が暁斗を元気づけたい時に歌ってくれたものだった。涙を流す暁斗に泣きやんで、と願って歌った。夕陽の優しさでできた歌。 「気づいたら、歌ってた」 「俺、泣きそうな顔してた?」 「なんで?」 「だって、兄さんそういう時に歌ってた気がするから」 「そうだっけ?」 「そうだよ」  どうやら夕陽は自覚がなかったらしい。 「泣きそうだったのはオレの方だよ。暁に歌って、って言われるのが大好きだった。ずっと暁のために歌っていたかった」 「じゃあ、俺のためだけに歌ってって言ったら、そうしてくれる?」  じっと顔を覗き込んで問いかければ夕陽はぐ、と声を詰まらせる。 「できないんだ」 「……仕事、やめたらね」 「ふふ、それでいいよ。兄さん、ようやく俺ばっかりじゃなくなって、正直ちょっとほっとしてる」 「どういういこと……?」 「そのままの意味だよ」  もちろん、夕陽がたくさんのファンのために歌っていることは時々さみしくなることもある。でも、誰のために歌っていても夕陽の心の真ん中はきっと暁斗なのだと、今はそう信じることができる。だから独り占めしたいという気持ちもがまんできる。そうするためにも夕陽に〝仕事だから〟と言ってもらった方がちょうどいい。 「俺だって、兄さんのためだけには歌えないしね」 「暁は、ファン想いだよね」 「兄さんだってそうだろ。じゃなきゃ、さっきみたいな言葉は出ないよ」 「そうだね」  夕陽に想いを届けたくて歌っていた。でも、暁斗が歌いたいと思ったきっかけはきらきらひかるアイドルに憧れたからで、夕陽に憧れたからだった。今はすぐそばに夕陽がいる。夕陽と同じ場所で歌うことができる。だからもう大丈夫。 「でも、今だけは俺のために歌ってね」 「もちろん」  ふわん、と夕陽は笑って、暁斗をぎゅっと抱き寄せる。 「ねえ、暁、さっきの曲、ちゃんと歌にしたら本当に暁にあげる」 「え……?」 「誕生日、まだプレゼント渡してなかったから」 「……ああ」  そういうえば、もう通り過ぎてしまった秋の日、夕陽は〝きちんとお祝いさせて〟とメッセージに書いていた。 「べつに、いいのに」 「よくないよ」 「でも、俺ばっかりもらいすぎてる。もちろん、兄さんが歌をくれるっていうなら、すごく嬉しいけど」 「ほんと?」 「うん」  夕陽が作ったたったひとつの歌。そんなもの嬉しくないはずがない。 「だから、俺も兄さんにちゃんとお返しさせて」 「お返しなんて、そんなのいいよ」 「よくないっ。兄さんはいっつも優しくしてばっかりで、欲がないよ」  欲張りになれと思って言い返すと、夕陽はなぜかふふ、と笑った。 「……なに」 「欲、ないことはないって、暁は知ってるのに?」 「っ……」  ちゅ、と首筋にキスをされてびくんっと肩が飛び跳ねる。  こら、と叱ろうとしたのに、夕陽はすぐに真面目な顔になり、まっすぐに瞳を見つめてきた。 「オレは暁といられるだけで充分。暁から形のないものをいっぱいもらってるよ。暁が生まれてきてくれた、それだけでも本当に嬉しかった。その上またこうやって隣にいてくれる。一緒に歌を歌ってくれる。充分すぎて、もらいすぎてるぐらいだよ」 「……俺だって、兄さんがいてくれるだけでいいよ」 「うーん、でもつい暁には形のあるものを持ってもらいたいって思っちゃうから、これはオレのわがままかな」 「わがまま……」  夕陽からは一番ほど遠い言葉のように思える。でも夕陽が贈り物をすることで満たされると言うのならそれでもいいのかもしれない。 「だから、暁はお礼だと思って、オレがあげたもの使ってね。しまっておいたらだめだよ。なくしたり壊したりしたらまた新しいのにすればいいから、使って」 「……わかった」  確かに、今の言葉を聞くと〝わがまま〟というのもあながち間違いではないような気もしてくる。暁斗が夕陽にもらったものを大事にしすぎて仕舞い込んでいることもお見通しというわけだ。 「でも、大事に使うから、兄さんは俺のためって言ってすぐ高価なものを買うのはやめたほうがいいよ」 「…………わかった」  渋々、という様子がまったく信用ならなかったが、もしまた何か贈り物をされたら暁斗も倍返しにしてやろう、と思った。 「ねえ、暁、もうひとつわがまま言っていい?」 「なに?」  今度はなにを言われるのか、とすこし心配になったが、夕陽の瞳がきらきら輝いていて、その無邪気な笑みに暁斗まで楽しくなってしまう。 「お兄ちゃんって、呼んで」 「…………そんなこと?」 「そんなこと?オレには大事なことだよ」  呆れて苦笑してしまった。照れくささに頬が熱くなる。 「もう、しょうがないな」  欲がない、なんて言ってしまったのは自分だ。  暁斗は夕陽の耳元に囁くように伝えた。 「お兄ちゃん、もういっかい歌って」 「っ……」  夜明けのひかりの中で夕陽の瞳がきらきら輝く。 「暁もいっしょにね」  夕陽が笑っている。それがとても嬉しかった。
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