63人が本棚に入れています
本棚に追加
6
いつかまた、と想い描いていた未来。一緒に暮らすことができればいいのに、と望んでいたもの。それが今、掌の中にある。
想像した未来とは違ったけれど、突然訪れた二人暮らしに最初は戸惑いながら、暁斗はそれでも本当のところは嬉しくて落ち着かない気持ちだった。
それなのに、どうして変わってしまったのか。
夕陽はずっと昔のまま優しくしてくれる。変わったのは暁斗の方だった。
「ただいま~……暁斗?」
夕陽が遠征から帰って来る日、一日オフなのだから夕食を作って夕陽を待っているつもりだった。折角時間が合うのだからドラマの感想も伝えて、自分の仕事の話もして、他愛ない会話をするつもりだった。でも、今の暁斗にはそれはできない。
「あれ、寝てる……?」
夕陽が探す声が聞こえる。でも、暁斗はベッドの中に籠ってその声に耳を澄ませていた。部屋に入ってきたらどうしよう、と思ったが、夕陽はリビングの机の上に置いておいたメモを見てくれたらしい。足音は一度遠のいて、近づいて、暁斗の部屋を通り過ぎていく。そして、しばらくしてシャワーの音が聞こえてきた。
――明日早いから先に寝てる。夕飯は作ってあるから。
そんなメモを見て、夕陽はなにを思っただろうか。
明日早いのは本当。でも、べつに夕陽と食事をとる時間が作れないほどではない。ただの言い訳だ。
昨日自分が何をしたのか、忘れられるはずがなかった。
テレビの中で囁く夕陽の声、差し伸べられる掌、女性の肌に優しく触れる指先。思い出すとまた体が疼く。
幼い頃何度も一緒に風呂に入った。体を洗いあって、笑いあって、なんでもない、ただの兄と弟だった。
でも、今夕陽の肌を想像すると体が熱くなる。だめだ、だめだ、と自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、自覚してしまう。夕陽に抱いた感情が普通ではないことに。
とうてい夕陽とまともに顔を合わせられると思えなかった。
もう少し時間を空けて、明日がきたら、いや、明後日になったら。いや、もっとかかるかもしれない。そもそも時間が経てばどうにかなるものなのか。想像してみてもはっきりとは答えが出ない。でも今は時間をかけることしか思いつかなかった。
顔を合わせず、距離をとって、そうしたらきっとまた普通に話ができる。そうであってほしい。そうでないとすればどうしたらいいのかわからない。
ベッドの中でぎゅうっと強く瞼を閉じて、暁斗はただじっと時が過ぎるのを待っていた。
◇◇◇
翌朝、静かにベッドを抜け出してまだ日も登りきらないうちに暁斗は家を出た。
本当は夕陽の顔を一目見たい。でも、そんなことをして自分がどんな反応をとってしまうか想像するとこわくてたまらない。夕陽の部屋のドアをじっと見つめ、揺らぐ気持ちを振り切って目をそらした。
「こんな朝早くに迎えに来て、なんて言ってすみません」
「べつに、たいしたことないですよ」
砂岡の車に乗り込んで頭を下げると、砂岡は「むしろ助かりました」とバックミラー越しににっこり微笑む。
「現場入りが早かったので晴之くんと暁斗くん、どちらを先に迎えに行こうかと思っていたのでちょうどよかったです」
「そうだったんですね」
「うん、だから気にしないで」
「ありがとうございます」
もう一度砂岡はやわらかく笑んで、ゆっくりと車を発進させた。
砂岡にはきっと気づかれているだろう、いつもとどこか違う、と。でも、あえて聞かないでいてくれていることもわかる。仕事にさえ支障が出なければ砂岡は踏み込んでくることはない。夕陽と急に二人暮らしをすることになった時も深くは問われなかった。
――お母さんのこと、心配ですね。お兄さんと一緒にいることで暁斗くんの心が落ち着くなら、それが一番いいと思います。
砂岡が一番大事にしているのは暁斗の心だ。支えてくれる人に恵まれていると思う。晴之も砂岡もいつだって暁斗の味方だと信じさせてくれる。だから今まで滞りなく仕事を続けてこられたのだろう。
砂岡に余計な心配をかけたくない。余計な、なんて、と苦笑されるのも想像ができる。でも今回ばかりはどうしようもない。
どうにか切り替えないと。
暁斗は膝に乗せていたコンビニの買い物袋を開けてサンドイッチとカフェオレを取り出した。朝食も摂らずに出てきてしまったから何か体に入れておかないと仕事に支障が出てしまう。それだけは避けたい。
齧りついて、口の中にトマトの果汁がじわりと滲む。卵サンドでもない、ツナサンドでもない。きちんとタンパク質と野菜を摂らないと、と思ったのは夕陽の影響に他ならない。
夕陽の作ってくれたちょっと焦げたスクランブルエッグと大雑把に千切られたレタスが頭を過り、つい最近のことなのにどんな味だっただろうか、と唐突に思い出したくなった。でも、記憶はおぼろげで、どうしてもっと味わって食べなかったのかな、と今更悔いた。コンビニのサンドイッチは確かにお腹を膨れさせたけれど、あまりよく味がわからなかった。
「はよー」
「おはようございます」
ほどなくして車が停まり、晴之が隣に乗り込んできた。くあ、と晴之は大口を開けてあくびを漏らす。そうしていても隙がないなと思うのは、朝早いというのに寝癖ひとつなくて、マスクをしていてもわかるほど肌艶も良いからだろう。
俺、肌、ぼろぼろになっていないかな、変なところないかな。今更頬を撫でて確かめてみてもわかりはしない。
「暁斗……」
「……」
車が走りだしてすぐに晴之がじっと顔を覗き込んでくる。
「なんですか」
「あー……うん、まあ、いっかな」
「……?うん」
晴之はしばらく暁斗の顔を見つめてからなんでもなかったかのように前を向いてしまった。
砂岡もだが、晴之も暁斗の変化に敏感だ。今の様子だとどう考えてもいつもと違うことなんてわかっている。それでも、そっとしておいてくれることにしたのだろうか。
暁斗はほっと肩を撫で下ろし、飲みかけだったカフェオレのストローにかぷりと齧りついた。
◇◇◇
「暁斗、飯行くぞ」
「え」
ロケ、ラジオ収録、最後にレッスンを終えて、晴之はすぐに声をかけてきた。移動中も何も言われなかったから問題なく仕事を終えられたのだろうとほっと息をついた時だった。
着替えも終えて、あとは帰るだけ、というところで晴之の有無を言わさない声に暁斗は静かに頷いた。
正直なところ夕陽の家にまっすぐ帰ることをためらっていたからちょうどいい理由ができたと思ってしまった。結局帰る場所はそこだけなのに。
促されるままタクシーに乗り、向かった先は晴之の家だった。
「あの、ご飯って」
「俺が作ってやる」
「え、そんないいの」
「いいも何も俺が誘ったんだろ」
止める間もなく晴之はロングTシャツの袖をまくり、キッチンに入って行く。
「手伝う」
「いーからいーから。まあ座ってろ」
「……わかった」
今日の晴之はいつも以上に強引だ。でも、べつに嫌な感じはしない。〝世話を焼きたい質だから〟と前に言っていたことをふと思い出した。
晴之の部屋に来るのは初めてのことではない。リビングの真ん中に置かれた大きな革張りのソファに腰かけて鞄の中から砂岡から預かっていたアンケート用紙を取り出す。締め切りは確か来週末で余裕はあるが、早いに越したことはない。
「真面目だな~暁斗は」
半分ほど進めたところで晴之が苦笑しながらテーブルの上に皿とグラスを並べていく。
「べつに、そういえばまだ書いてないなって思っただけ」
「ほかにやることあんだろ~エロ本隠してないか探すとか」
「しないって」
「え~、暁ちゃんそういうの見ない派?」
「見ないよっ」
それがどういうものなのかもいまいちわからないが、正直に打ち明けたところでからかわれるのは目に見えているから黙っておいた。
「飯にしよーぜ」
「うん、ありがと。めちゃくちゃおいしそう」
「だろー?」
テーブルの上に並べられたのは、ウィンナーと野菜がごろごろ入ったナポリタンとポタージュスープ、それからアイスココアと缶ビール。皿の中からはゆるりと湯気が立ち上り、いっしょに胃袋を刺激するおいしそうな匂いが鼻腔を擽る。ぐう、と自然とお腹の虫が鳴いた。
「いただきます」
「どーぞ」
遠慮なく料理に手をつける暁斗に晴之は満足げに笑ってカーペットの上にどかりと腰かける。
晴之はすぐには料理に手を出さず、缶ビールを開けてぐびぐびっと喉を鳴らして煽った。その豪快な飲みっぷりにまだ酒が飲める歳でもないのに、暁斗はおいしそうだな、と自然と笑顔になった。
「で、暁斗、何があった?」
「……っ、げほっ」
「あ、悪い」
まさか今聞かれると思っていなくて、あやうくナポリタンを喉に詰まらせかけた。晴之はよしよしと背中を撫でてきて「いい加減がまんできなくて」と苦笑した。
「いや、俺も聞かれるとは思ってたから」
「あー、そ。じゃあ、自分でもわかってんだ」
「うん」
「朝からなんでもない、って顔じゃなかったもんな」
「……うん」
「ダンスのキレもなかったし」
「…………うん」
告げられる言葉一つひとつに思い当たる節がありすぎて、まともに晴之の顔を見られなかった。
晴之はしばらく黙って暁斗のつむじを眺めていたが、唐突にふはっと噴き出してテーブルの上に缶ビールを置いた。
「べつに、責めてるわけじゃねーよ」
「っ、うん……わっ」
ぬっと晴之の手が伸びてきて、ぐしゃぐしゃと頭を掻き混ぜられる。晴之は眉尻を下げてくしゃりと笑い、ふうと小さく息を吐いた。
「兄ちゃんとなんかあった?」
「……うん」
最初からわかっていたのだろう。晴之にはすでに一度相談している。いや、一度ではない。そもそもユニットを組んだあの日からずっと暁斗が抱えてきた想いを一緒にしょいこんでもらっていた。晴之にしか相談できない。
「晴之さん、兄さんのドラマ、知ってる?」
「あー、今やってるやつ?普通に見てる」
「そう、なんだ」
「うん、おまえの兄ちゃんどんなかな~って興味あったのもあって」
それはどういう思考から?と思ったが、聞かなかった。晴之はもともと何でも吸収できるものは取りこもうとする人で、勉強のためにとドラマもよく見ている。それに加えて暁斗の話を聞いていたからという理由も加わったのだろう。
「じゃあ、この前の回、見た?」
「見た…………あー、え?」
考えを巡らせて、記憶をたぐりよせて、晴之は「あー」と頭を抱える。まさか、という顔だ。
「兄さんの、ああいう演技を見て……なんかこう複雑な気持ちになって……」
「あー……なんっとなくわかった」
「……うん」
「親のそういうの見ると、なんつーか気まずくなるけど、まあ、それは暁斗にとって兄ちゃんも同じだよな」
「まあ、そんな感じ」
複雑な気持ちが具体的にどういうものか、というところまでは話さなかった。でも、晴之の想像は全く見当違いなものでもない。共感を得られたというだけで心はいくらか軽くなった。
「演技だってわかってる。でも、今までそういうのはなかったからうまく割りきれなくて」
「はは、暁斗そういう切り替えへたそうだしな~」
「……うん」
晴之は本当に暁斗のことをよく見ている。苦手なところもわかっていて、いつもカバーしてくれる。
「ましてや一緒に住んでりゃな~。気まずくもなるって」
「ごめん、こんなことで調子崩して」
「はは、なーに謝ってんだよ。なんだかんだ言っても今日仕事してる間、俺以外は気付いてなかったと思うぜ」
「そうかな?」
「うん、暁斗はよく頑張ってる。それに、おまえがどれだけ兄ちゃんのことだーい好きかは知ってるから」
「っ……それは……」
真面目な口調のまま、にいっと口角をあげるから思わず肩を叩いてしまった。
「くくっ、可愛いやつ。暁斗がそんなだから弟みたいでほっとけねーんだよな」
「……うん、俺も甘えすぎてるって思う。ありがと」
「はは、素直に礼言われたらこっちが照れるだろ。でも、暁斗おまえこのまま家帰れんのか?」
「……それは……」
できるならば顔を合わせたくない。でも、緒に暮らしつづければまったく顔を合わせず言葉も交わさない、なんてできるはずがない。今だって本当は帰りが遅くなる連絡をすべきなのだとわかっている。ぐっと押し黙った暁斗に晴之はからっと言い放った。
「暁斗、いっそうちに来ちまえば?」
「え……?」
「これから新曲発売に合わせてしばらく忙しくなるし、一週間か、二週間ぐらいだけでもうちで暮らせばいいよ」
「そんな、晴之さんが迷惑だろっ」
「迷惑だって思ってないから言ってんだろ?俺としてはおまえに調子崩されたまんまの方が迷惑だけど……?」
「ぐっ……それは……」
責めるつもりがないのはわかっている。離れて暮らしたからと言って根本的な問題が解決するわけでもない。それでも晴之からの提案は現状を続けることよりいくらか良い気がした。
「それとも、そんなに兄ちゃんと離れてるのやだ?」
「……」
イエスともノーとも答えられなかった。
晴之はふっと静かに笑って「ごめん」と言う。
「意地悪だった」
「そんな……」
優しい人なのだ、となんどでも知る。
「暁斗、兄ちゃんに連絡しろ、必要なら俺からも話すから。ご両親にもいるか?砂岡ちゃんはまあ最後で平気だろ」
「いや、そんな、俺がちゃんと連絡するよ」
「ん、よし。決まりな」
「あ……」
気付けば晴之の家に世話になることが決定事項になっている。晴之は話し終えると「ビールとってくる」と腰を上げてしまった。
なかば押し切られるような形ではあったが、結局それも晴之の気遣いだ。甘えすぎている、とわかってはいたが暁斗は観念してスマートフォンを取り出した。
――『兄さん、連絡が遅くなってごめん。今日晴之さんの家に泊まる。それから、しばらく忙しくて帰りも遅くなるから晴之さんの家に居候させてもらうことになった。また昼間着替え取りに帰る』
メッセージを何度も読み返してから夕陽に送った。するとすぐに電話がかかってきた。
「……はい」
『暁斗、今大丈夫?』
「うん、平気」
『突然どうしたの?なにも言ってなかっただろ?』
心配している、という声だった。怒っては、いない。ただ、暁斗を案じる声だった。
「いや、えっと……晴之さんと今後のこと話してて、新曲のこともあって忙しくなるし、晴之さんの家の方が事務所も近いからどうかって言われたんだ」
『そう、なんだ』
「迷惑だからって断ったんだけど、晴之さんの方から誘ってくれて、だから、甘えてもいいかなって」
慎重に言葉を選んだ。それでも後ろめたさは確かにあって、夕陽に不審がられないか不安だった。
夕陽はしばらく黙りこみ、それから静かに『わかった』と言った。
『暁斗が仕事をしやすい方がいい。ずっとじゃないんだろ?』
「そのつもり」
本当は、どうなるかなんてわからない。でも今はそう伝えるしかない。
『無理しないようにね』
「……うん、兄さんも、元気で」
『……うん、おやすみ』
「おやすみ」
ひとつひとつの言葉の空白が心の隙間を現しているようだった。間違いなく心配はかけている。それでも離れると決めたのは暁斗の方だ。
元気で、なんて、お別れみたいな言葉、どうして選んでしまったのか、すぐに後悔して頭を抱えた。
「はー……」
「暁斗、おまえ嘘つくのへたくそだな」
「……聞いてたの」
晴之がいつの間にか戻ってきていて、缶ビール片手に苦笑している。
「いや、聞くだろ、どうなってんだろうなって」
「……そう、ですね」
どうしようもない自分にぐうっと言葉を詰まらせると晴之はまたくしゃくしゃと頭を撫でてきた。
「まあ、ひとまずいっぱい食べて、いっぱい寝ろよ」
「……ん、ありがとう」
また夕陽を傷付けたかもしれない、と思った。でも、家に戻ったところで別の形で傷つけるかもしれない。それならば一度距離を置いて、考えたい。これからどうするのか、自分の気持ちをどう扱っていくのか。
皿の上でナポリタンもポタージュもすっかり冷めてしまったけれど、それでもどちらも美味しくて、泣きたくなった。
最初のコメントを投稿しよう!