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プロローグ
『私の役割もここまでね』
もう言葉を発することのない横たわった女性に向かって、私はそっと語りかけました。
ここは斎場の小さな和室。若草色の畳の上、純白の棺桶の中で、わがご主人様は穏やかな寝顔をしていました。
私は真っ白の化粧を施された、その寝顔をじっと見つめます。命が途切れる瞬間まで、彼女はずっと炊事や洗濯で忙しく動き回っていました。しわだらけで豪快に笑う、あの顔を思い出します。一生現役だと彼女は豪語していたけれど、まさにその通りの働きぶりでした。
守護なんて要らないくらいの、豪快で幸せな生き様。守護霊としてご主人の最期が、これほど誇らしいことは無いでしょう。
ふすまの向こうの声がだんだん増えてきました。親族が集まり始めたようです。
『大丈夫。貴女の思いはきっとみんなに届いているわ。今までお疲れ様』
ご主人の額をそっと撫でます。私の手は透けてしまいますが、白髪が空調の風を受けて微かに揺れました。
御年七七歳。ちょうど節目の年に旅立ったのね……と少しだけ胸の辺りに痛みが走ります。悲しみはないのですが何故でしょう。
周りを見渡しても、私以外の精霊が姿を現すこともありません。正真正銘、ご主人にとって私が最後の守護霊になった証です。
『私……第十一代目守護霊をもって、あなたの守護を完了といたします。ヒトという器での一生、お疲れさまでした』
さようなら、わが敬愛するヒトよ。
そう呟いた私の視界の端で、二つの影が座り込むのが見えました。小さなヒトが縮こまっていて、一人は嗚咽を抑えているようです。
泣いているのは少女でした。ご主人様は確か、小夜と呼んでいたはずです。真っ黒なセミロングの髪は乱れ、暗い配色の服に身を包んでいます。ゆえに線が細い印象を受けてしまいますが、憂いを帯びた猫目にはご主人の面影がしっかりとありました。
その隣で小夜の肩を支えているのは、兄の相馬でした。こちらは小夜と比べるとしっかりした体つきで、口を一文字に結んでいるものの涙は見せていません。流石、お兄ちゃんですね。
ですがよく考えてみれば、小夜は小学生で相馬もまだ中学生になったばかり。受け入れるのは中々に辛いことなのかもしれません。
なんとなく、飼い始めの小動物を眺めているような感覚を覚え、思わず口元が緩んでしまいます。
「小夜、戻ろうか」
「イヤだ。まどかおばあちゃんの側にいる」
相馬の呼びかけに小夜は首を振りました。主人に寄り添う形で座り込んでしまいます。
「分かった。先に行くからね」
かたん、とふすまが閉まり、その向こうでは親族が何かの話題に花を咲かせているようです。
小夜を呼ぶ声も交じりますが、小夜は微動だにしません。
『これは、難儀するわね』
私はついつい目を細めてしまいました。
小夜はご主人に随分と懐いていたから仕方無いことでしょう。
ご主人様の愛した子どもたちとはいえ、私の守護対象ではありません。
視界の端で縮こまる小夜の姿に、切ないような嬉しいような気がするのは何故でしょう。
一人でも心から見送ってくれるヒトがいてくれるのは、それだけで心が満たされる思いがします。
例えそれが、私に向いていないとしても――?
あれ、心?
ああ、いけません。これが今生の別れだと思って、変なことを……。私に心なんてものは定義づけされていないというのに。
ご主人様と小夜の顔を交互に見比べているうちに、私の体が霧散し始めていたことに気づきました。これで私も過去の存在となるのでしょう。
当然、涙は流しません。いつも私はそうでした。
だけど、これぐらいは言わせてほしい。
『小夜も相馬も、これから元気に育って楽しい人生を送ってね。ご主人様の分まで』
私の分まで。……最後の言葉が、紡がれることはありませんでした。
――中原家 通夜・告別式 中原 円――
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