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3.もっと早く気が付けばよかった
桜の木が満開を迎えた季節。
生暖かい風が山の方から、小夜や私を薙ぎ払うように吹き付けてきました。
私がこの世界に降り立って、六回目の春がやってきました。
高く頭上の桜色の花びらがざわざわ揺らめいています。
『小夜の守護任期、六年度目のスタートとなりまシタ。年度が変わるのはいつも楽しみですネ』
『そうですね』
数歩先には小夜が歩いています。
相変わらず下向き加減ですが、もう隣で歩きたくなるほどの危うさは感じられません。
アスファルトに伸びる影も、随分と長くなったものです。
『これが中学生、ですか』
見慣れない制服というものに身を包んだ小夜は、たったひと月前と比べても随分大人びて見えます。
くせっ毛もかなり落ち着いたように思えましたが、そういえば今朝は早起きして櫛を念入りに通していましたっけ。
おかげで今まで可愛らしいと思っていたその姿も、ふとした瞬間に美人だ、と感じるのは気のせいではないはずです。
中学校の門前に恐る恐る立った小夜は、教師に促されるまま、げた箱へ教室へ――と押し込まれていきます。
廊下を歩いていると、小夜よりはまだ気楽な表情をした生徒たち三人とすれ違いました。
小夜は一瞬顔を上げたものの、すぐに視線が下を向いていきます。
周りの生徒たちの視線が怖くなったのか、廊下の途中で立ち止まってしまいました。
『小夜、焦らなくていいから。落ち着いてね』
私は小夜の頭をそっと撫でます。
小夜はふわりと浮いた髪を手櫛でさっと直し、小さく深呼吸をしました。
「よしっ」
顔を上げて胸を張り、教室へと足を踏み入れていきます。
『小夜。やる気は十分ですよ。あとはタイミング。初めの距離感を大切に』
『いくら言っても聞こえていませんヨ』
『分かっています』
監視者の呆れ声に、私は適当な相槌を打っておきました。
そんなことは百も承知。ですが小夜にとって、ファーストコンタクトとなる今この瞬間が肝心なのです。
小夜――いや自分の主人が、一世一代の大勝負に出ようとしているのに、応援しない守護霊が存在するはずありません。
『大げさですネェ』
『うるさいです』
大げさなものですか。
小夜は今までの自分から変わろうとしています。
それがどれだけ勇気の要ることであるのか、私はもう知りました。
『まあ、アナタは守護霊なので、任務に忠実なのは非常に喜ばしいことデス。ですが……』
私の頭上で蠢いていた監視者は、急に抑揚のない声になりました。
『たかだか決心した程度で、そんな簡単に上手くやれる訳ないでショウ?』
――小夜の通う教室には三十八人の生徒たちが席についていました。
入学式を終えて初めての登校日。学生服やセーラー服に身を包んだ生徒たちは、緊張が見え隠れしていました。
ですが、どこかしらに見知った顔を見つけたようで、だんだんと話し声が増えていきます。
知った顔なんて一人もいない小夜は、誰よりも緊張で震えているのが分かります。
隣の席の誰かに声を掛けようとして、やはり視線を落とす。
そんなことの繰り返しでした。確かに、小夜にとっては威圧感のある空間かもしれません。
震えは緊張をほぐすために必要ですが、あまり周りの目から不自然にみられても困ります。
なので、私は小夜の肩に触れ、『大丈夫、大丈夫』と念を込めました。
『過保護ではありまセンカ?』
『結局、私はここまでしかできませんから。小夜の心の、準備運動です』
『物は言いようですネ』
監視者は嗤うように呟きました。
「これから皆さんには自己紹介をしてもらいましょう。知らない学校のメンバーもいますからね。まずは出席番号一番……井上君から」
担任の教師の言葉に、ぎこちなく男子生徒が教壇に立ちました。
「ぼ、僕は井上修二……、といいます」
緊張の面持ちをしています。
凝視する小夜の瞳には、戸惑いの他に小さな希望の火が灯っていました。
『そうそう。全員初めてなのだから、条件は一緒。焦らないで大丈夫です』
私は思わず小夜の頭を撫でようとして、今度は手を止めました。
さっき監視者から言われた言葉を思い出します。
確かにこれ以上は、ただの過保護な気がします。
今変わろうとしているのはご主人様自身。それならば、私も変わらなければならないかもしれません。
もしかしたらこの行為は、小夜の成長を止めることになってしまうかもしれませんから。
例え、小夜が私を認知できていないとしても、それだけは嫌でした。
出席番号にして十九番。ちょうど真ん中で、小夜の名前が呼ばれます。
立ち上がる小夜。その姿を見て、何故か私の体が、どこか苦しくなってきました。
私は呼吸している訳でもないのに、まるでヒトが息苦しい時のように前かがみになってしまいました。
小夜は顔を上げ、息を吸い込むと勢いよく口を開けます。
――そして。
「おはようございます! あ、えっと……あの、中原小夜、といいます」
良い滑り出しでした。出来れば、そのまま言い切ってほしいところでしたが……。
「ここは、いや、この町に最近引っ越してきたのですが、えっと……」
急激に声量が落ちていきました。
もはや虫の羽音です。
「慣れてないのですが……えっと好きなものは――」
私はまずい、と思いました。
話も空中分解し、分かりづらくなっていきます。
周りの生徒たちの目は、心なしか険しいものになっている気がします。
小夜もそんな空気を感じ取ったのでしょう。
頭を振るうと、上擦りながら振り絞った大声で一言。
「私、仲良くしてもらわなくて平気ですから!」
え?
一瞬、私を含めその場の人間が硬直しました。
小夜は顔を真っ赤にし、壇上から転げ落ちるように小走りで自分の席に戻っていきます。
無数の瞳が一斉に、小夜の方へと向けられました。
自分の席で俯きながら拳を強く、うっ血するほど強く握りしめています。
「中々個性的な自己紹介でした。いいですね。それじゃあ次。新島さん――」
担任の教師が差し伸べたフォローも、生徒たちがクスクスと笑って逆効果なようでした。
私はいたたまれなくなって小夜の正面にしゃがみ込みます。
『小夜、これは……』
『すごいすごい。傑作デス』
監視者の声が、私の声にかぶさってきました。
今まで聞いたことのないくらいに楽しそうで、起伏に富んだ憎たらしい声でした。
『……何を、言っているんですか』
『だって、自分から変わりたいって言っておきながら真反対のことをするんですヨ?』
『それは』
『確かに変わっていますネェ。いつだったかアナタが、ヒト種は適当な生き物と言った、まさにその通りデス』
何も言えませんでした。
視界の端には、小さくなる小夜の姿が映ります。
『フフ。これだからヒト種の観察は面白いデス。もし私がヒトに紛れて生きていたなら、きっと拡散したでしょうネェ。ヒト種特有のコミュニケーションツールで――』
『やめてください!』
私は咄嗟に叫んでしまいます。
掴まれて握りつぶされそうなくらい、苦しくて痛いこれは。
私の身体のどこかが、悲鳴をあげているのでした。
小夜に対する非難が、こんなに私の奥の何かを容赦なく抉るものだとは思いませんでした。
人間たちは、こんなことを繰り返す世界で生活していたのか、と初めて体感しました。
コミュニケーション能力があっても、理解しあうことは難しいのだと、身をもって悟りました。
対して監視者は興ざめしたようで、声のトーンが一気に落ちていきます。
『感情的になるのは感心しませんネ。アナタは小夜の親や友達ではないのですヨ。事実をありのまま受け止められなくて、守護なんてできマスカ? それではただの子守、庇護に過ぎまセン』
『……それは』
『客観視点をお忘れのようですネ。自然社会はどの個体にも平等に不平等。事実を受け止めなサイ』
『だからといって、別に笑うこともないじゃないですか』
『客観的に強すぎる個性だったので感情を刺激されたにすぎまセン。落ち度を責めるのは群れの掟デス。それよりアナタ、随分と寄りすぎていますネ?』
刹那、眼前いっぱいに集合的無意識が近づいてきます。
私は全身に寒気が走って、思わず身震いをしてしまいました。
ヒトの無意識を束ねる監視者の身体――粛然と燃える黒い魂――は、ヒトが持つ闇の深さを如実に示しているのです。
『アナタの役割は守護デス。一個体への感情移入は「適切」にお願いしマス』
大きく燃え上がった監視者はそのまま燃え尽き、一筋の煙を残して消え去りました。
残された私は、小夜同様うつむくしかできませんでした。
流石の私でもあの感情は分かります。
『怒り……?』
ちょうど中学校で初めての終業チャイムが鳴り響きました。
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