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父親に辛く当たられるミラーを不憫に思ったのか、母親以外で誰よりも彼に愛情を注いでくれたのがミハイルだった。ミハイルはロシアのクラウンに特徴的な、ウィットに飛んだ独創的な四コマ漫画のような寸劇の要素のあるパフォーマンスが得意だった。客席に大量のティッシュペーパーを撒き散らし、滑稽な仕草で回収に行く。その途中で女性のバッグを奪ったり(もちろん後で返す)、子どもに手品を観せたり風船で作った動物をあげて喜ばせた。
彼は運動神経こそ良くなかったが、パントマイムや手品に秀でていた。彼独自のクラウンキャラクターとパフォーマンスはヨーロッパ諸国でよくうけ、瞬く間に大人気クラウンとなった。その人気は伝説級で、ヨーロッパのサーカス関係者の中で彼の名を知らぬ者はいないほどだった。
繊細な神経を持つミハイルは他の団員に対しても親切だった。さりげなく体調を気遣い、本番前に緊張しているメンバーたちをジョークで笑わせた。とりわけともにサーカスを再興させた同志であるアンジェラに対して親しみと慈しみを持って接しているように見えた。パンクしそうに積み重なっていた彼女の仕事を手伝い、ピアジェが彼女に何か嫌味を言ったり手をあげそうになると庇った。一方のアンジェラもミハイルには心を開き、乱暴で独善的な夫のことを相談したりしていたようだ。
やがてピアジェはそんな2人の仲を訝しむようになった。元々彼は、才能があり団員からも客からも人気のある稼ぎ頭であるミハイルに対して激しい嫉妬心を抱いていたのだ。彼はミハイルをサーカスから追い出した。そして以前よりも妻を激しく束縛し、サーカス列車の自分の部屋に軟禁するまでになった。妻が何か言ったり逃げ出そうと画策しようものなら殴り蹴りつけた。鞭で背中を血が流れるまで打つこともあった。それこそ鬼畜のように意識を失うまでやり続け、止めようとしたミラーのことも容赦なく殴りつけた。
妻が彼に従っているうちはピアジェは気味が悪いくらいに優しく献身的だった。赤子に語りかけるように声をかけ、食事も自らの手で与えた。
やがてアンジェラの心は壊れ、笑うことも怒る気力すらもなくなり、1日の大半を涙を流して過ごしていたという。
そんな地獄のような日々が続いていたある時、アンジェラが姿を消した。ロシアのウラジオストクでの公演の夜のことだった。公演を終えて帰ってきたとき、部屋にアンジェラの姿がないことに気づいたピアジェは狂ったように喚き散らして彼女を探し回った。だがアンジェラは列車内のどこにもおらず、翌日雪の積もる街を団員総動員で端から端まで探したが小さな手がかりすら見つからなかった。
ミハイルが妻を連れ去ったに違いないと思い込んだピアジェは怒り狂い、偏執的な鬼と化した。彼は1人だけ次の公演地には行かず、妻の行方を追ってロシア中を駆けずり回った。団員の誰も彼の無謀な試みに対して口出しはできなかった。
しかし、1月の極寒のロシアをほとんど飲まず食わずで悪鬼の如き形相で捜索をつづけていたピアジェは、モスクワの空港で倒れ病院に搬送される。診断は肺炎だった。2週間の入院を余儀なくされた彼は回復後に何度も脱走を試みたが叶わなかった。
退院後半年ほど、ピアジェはルーファスに代理の団長を任せサーカスそっちのけでアンジェラの行方を追い続けた。結局アンジェラは見つからず失踪したままだ。ピアジェの横暴さについていけなくなった団員たちは1人、また1人と辞め今に至る。
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