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「親父は恐ろしい人だよ」
ミラーは暗い声でつぶやいた。
「自分の願望はどんな手段を使ってでも叶えないと気が済まない。完璧主義でショーにも妥協を許さない。って言うと聞こえがいいけど、結局金のことと自分の利害に関わることしか頭にないんだ。ワンマンで、気分次第で怒鳴り散らしたり、練習で上手くやれない団員や動物に乱暴したり……」
「そんなのあんまりだ! 誰にも止められないのか? 君のお母さんが捕まったときだってそうだ。何で彼女をそのままに……」
「無理だよ。止めようとした人は皆同じ目に遭って、結局辞めていく。俺も何度も親父を止めようとした。ルチアと一緒に母さんを何度も助け出そうとしたよ。そのたびに失敗してボコボコにされて終わりだった。まぁ、親父はルチアには手を出さなかったけどな」
誰にでも、動物にでも感情がある。暴言を吐かれれば深く傷つくし、自分は駄目な奴なんだと思う。殴られれば痛い。ディアナに殴られたときの痛みは、今もリアルに鳩尾に染み付いている。痛みを知っているからこそ、私は他人に同じ感覚を味あわせたくないとおもう。動物に対しても昔から親しんでいて愛情を感じる機会が多いからこそ、傷つけるという方向に意識が向かない。多くの人はそうだ。でも一定数他人の痛みに無頓着な人間はいる。もしくは他人が苦しんでいるのを見て愉悦に浸る人間が。ピアジェはどちらの人間でもあるように思える。彼の根本にある歪んだ何かが、狂気的で残虐な行為に駆り立てているかのようだ。
どうにかならないのか。何かできないか。
「小さい頃からいつも親父に言われた、俺は出来損ないだって。何もできない役立たずだって。親父は俺が邪魔なんだ、大事なのはルチアだけだ。ルチアは母さんにそっくりだから……」
「そんなことない」
私はミラーの悲しそうな目を見た。どんなに虚勢を張っていても、心は19歳の青年でしかない。愛情に飢え、自尊心を根こそぎ剥ぎ取ろうとする父親からの重圧と恐怖と闘いながら空を飛ぶ1人の青年ーー。
「君は頑張ってるよ。すごいよ。プレッシャーがある中で、あんな完璧な演技ができるんだから」
「別にすごかねーよ」とミラーは鼻の下を擦った。
「すごいよ、僕にはできない。僕は弱いんだ、君よりずっと。今まで人に流されてばかりで、大学だって中退して、本当に打ち込めるものなんて一つもなかった。ここでサーカスに出会って夢中になって初めて、君たちを羨ましいと思った。小さな頃からサーカス一筋に頑張ってる君たちを……」
「俺は逆に普通の人が羨ましい」
寂しげにミラーは答えた。
「俺はお前たちみたいに外の世界のことを知らない。この列車の外の社会がどんな風かも。物心ついたときから俺の世界は、このサーカスと仲間と家族と動物たちだけだ。他の子どもらと同じように学校に通って、転校なんかしないで友達と馬鹿やったりしたかった。もちろんここの仲間は皆いい人ばかりだ。でも時々思うんだ。ここに生まれてなければ、もっと違う人生があったかもしれないって」
サーカスは魅力的なだけじゃない。光があれば影もある。ミラーのようにサーカスという閉ざされた世界にいるために外の世界を知らず、辛い思いをすることもある。私たちが当然のように甘受していた普通が、誰かにとっては羨ましくて自由で輝いて見えるのだ。
「僕は逆に、これまで遊んでばっかりだったことを後悔してる。僕の母さんも色んなことを後悔してるかも。父さんとも離婚したし……」
「能天気な奴だとばかり思ってたけど、お前も色々苦労してんだな」
能天気という言葉にカチンときたが怒らないでおこうと思った。彼は感情や思考を素直に言葉にできない類の人間なのだ。
「きっとさ、100%満足のいく人生なんてないんだよ。でも僕はこの頃思うんだ、そのうちの50%でも……いや、30%だっていい。本物だって、生きてるって強く思える瞬間があれば」
「たまにはいいこと言うな、お前」
最近はクラウンのトレーニングからその他の業務、怒涛の場越しから公演から、忙しくて目が回りそうだ。でもその分充実していた。これまでぼやけていた世界の輪郭が、急にくっきりと鮮明に迫ってきた。そして知った。これが生きているって感覚なのだと。私がずっと欲していたものなのだと。その感覚は乾き切った心を潤す水のようで、否応なく私を意欲と活気で満たした。
これまでの人生が無駄だった、偽物だったとは思わない。過ぎ去りし日々を懐かしく思い出すことはあるし、恋しく思うときもある。でももし過去に戻りたいかと聞かれたらNOだ。今は例え郷愁や懐古の念を振り切ってでも前に進みたい。ずっと人生に疑問を持ち続けていたのに、今の私にはこの生き方しかーー道化として生きる道しかないように思える。妥協でも諦念でもない、確かな決意に似た希望に溢れた確信だった。
「そろそろ練習に戻らなきゃ」
私が部屋を出ようとするとミラーも立ち上がった。
「俺も行くよ」
トレーニングルームへ向かう通路を歩きながら、私は気がかりなことを打ち明けた。
「ケニーも最近疲れてるみたいなんだ、お腹の調子も悪いみたいだし」
この頃ケニーも顔色が悪い。長年の引きこもり生活で体力が失われたケニーは場越しのたびにくたくたで、翌日は全身の筋肉痛に喘いでいる。公演がない日は、ピアジェの怒鳴り声が響き渡る事務所で深夜まで続く仕事で疲れ切っている様子だ。彼の胃腸の問題も、おそらくは慣れない生活環境と過酷な労働のために違いない。
「多分オッサンそのうち倒れるぞ。親父の扱きには付いてけねーと思う」
「ケニーは繊細なんだ、優しすぎるんだよ。人一倍色んなことを敏感に感じてしまう分、疲れやすいんだ」
「でも、お前が手を出していいことと悪いことがあるんじゃねーの? オッサンだって大人だし、ある程度の問題は自分で解決するだろ」
「だけど……」
ケニーがいつかパンクしないか心配だ。今は私の冗談に笑ってくれているけれど、もしいつか笑えなくなったら?
「助けが欲しくなったらあっちからサインを出してくるだろ。それまで黙って見守ればいいんじゃねーの?」
考え込んでいるのを見破ったみたいにミラーが言った。
彼の言うことは一理ある。どうにかしてあげたいけど、伯父は頑張りたいと言うだろう。変わりたいと言っていたし、その決意は中途半端なものではない。私が助けに行くことを望んでいないかもしれない。姪っ子に庇われて恥ずかしいとか迷惑と思う可能性もある。
ミラーの言う通り、今はケニーを静かに見守ろう。でも、いつか彼が助けが必要になったときには駆けつけられるような心算もしておくつもりだ。
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