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ジェロニモのジャグラーデビューは順調だった。ボールを高速で5つ回し、ディアボロも全ての技が成功した。クラブジャグリングではヤスミーナとペアで、4本のクラブを互いにパスし合う高速のクラブパッシングを披露した。
私はその日万が一のために白塗りのクラウンメイクだけして、エントランスの奥のオフ・ステージから演技を見守っていた。
終盤に観客を1人指名して、クラブパッシングしている間を潜るという余興をやることになった。ジェロニモが緊張気味に指名した下から4段目の席にいた黒いライダースジャケットにジーンズ姿の女性がリングにやったきたのを見てギョッとした。黒いアイシャドウに覆われた鋭い目、剃り込みの入れられた髪で分かった。彼女はディアナだったのだ。旅行にでも来ていたんだろうか?
彼女にされたこと、私を見て笑ったときのゾッとするような表情が思い浮かんで眩暈がした。
「アヴィー、大丈夫かい?」
一緒にエントランスで観劇していたケニーが尋ねた。
「彼女、ディアナだわ……」
「マジか……あの子が?」
ケニーはもう一度リングに立つ女をまじまじと見つめ、「確かに気が強そうな子だ」と納得したように頷いた。
あの鳩尾の痛みが蘇ってきた。彼女は私がここにいることなど気づいてすらいないだろう。
予期せず衆目に晒されたディアナはリングの上ではにかんでいたが、どう見ても猫被りだ。おそらく彼女は注目されることが好きなはずだから、今この状況下で最高潮の快感に愉悦しているに違いない。考えるだけで気分が悪い。
ヤスミーナがディアナに何かフレンドリーに声をかけ、やがてジェロニモと1メートルほど間隔を空けて向かい合わせに立った。クラブが2人の間を高速で飛び交う。この中をくぐるなんてどう考えても不可能に思える。心の奥の私は願っていた。不可能であってほしい。どうか彼女が4000の観客の目に晒され、赤恥をかいてはくれまいか。彼女が無事ノルマを達成し、温かい拍手に見送られながら笑顔でリングを後にすることなんて考えたくない。
ディアナが一歩を踏み出す。長縄跳びをするときのようにタイミングを計り、交差するクラブの中へと飛び込んだ。
「ああ、タイミングが……」
ケニーが薄い髪を撫で付けた。嫌な予感がした。
数秒後鈍い音がして、リングにクラブが落ちる音と一緒にパフォーマンスが中断した。視線の先には頬を押さえ俯くディアナの姿があった。
観客たちの不安げなざわめきと緊張、ジェロニモの緊張と焦りが伝わってくる。
ーーまずい。
そう思う間もなくヤスミーナが青ざめた顔で駆け寄った。ジェロニモは呆然と立ったままだ。
私は激しく後悔した。ディアナが赤恥をかくこと=技の失敗を意味する。そんな単純なことに気づかずに邪念が過っていつもならありえないようなことを祈ってしまった。
ディアナの顔は羞恥のために真っ赤に染まり、パフォーマーの2人と観客たちを睨みつけている。
「何をやってんだ、アイツは!」
背後に現れたピアジェは怒りを露わにしている。
どうしたらいいんだろう。帰ってきたら確実にジェロニモは怒られる。多分、彼に指導していたヤスミーナも。ピアジェのことだ。もうジェロニモはショーに出さないなんて言うかもしれない。長い間雑用をこなし必死に練習してきた彼が、この一回、よりにもよってディアナを指名してしまったがためにチャンスを棒に振るだなんて。
何をしたらいい? クラウンとして私には何ができる?
確かなのは、今私がやるべきは憎き敵であるディアナを心の中で笑うことじゃない。
私はリングに飛び出した。落ちているクラブを拾い上げてディアナに渡しキャッチをするようにと身振りで伝えた。もちろんクラブジャグリングは未習得だけれど、この場合下手くそでもかまわない。
ディアナは私をあの「弱虫」のアヴリルだと気づいていないようだった。おそらく誰の目から見ても私は白塗りの年齢性別不詳のクラウンに映るだろう。ここからどう笑いに繋げようか。あえて下手くそなジャグリングを披露して笑わせようかと頭を働かせているときに、客席からのしのしと腹の出たスーツ姿の中年男性が降りてきて、私の首根っこを掴みオフ・ステージに引っ張って行った。付いて来たディアナも腕組みをして立っている。
「おい、今度は娘に何をさせるつもりだ?! さっきもあの小僧の下手くそなジャグリングで道具をぶつけやがって!!」
「入るタイミングの問題では? ジェロニモの技術には問題はなかったはずです」
直後、ゴツンと岩のようなものが能天に当たった。鈍い痛みが広がり視界が涙で歪む。
「無礼なことを言うな、馬鹿タレ!!」
拳骨を喰らわせたピアジェは囁き声で私を牽制し、気味の悪いビジネススマイルで腹の出た男に向き直った。
「これはこれは、ゴンザレス様……。先ほどは大変申し訳ございませんでした、うちの団員が粗相をいたしまして……」
ピアジェの別人のように腰の低い様子を見ると、この偉そうなディアナの父親とピアジェは何らかの関係があり、ピアジェの方が下の立場なのだと推察できた。
ピアジェは駆け寄ってきたジェロニモとヤスミーナを「お前らも謝れ!」と凄い剣幕で怒鳴りつけた。2人は言われるがまま蒼白のまま頭を下げた。彼らが謝る姿が痛々しくて、自分の無力さが悔しかった。ディアナはふんと鼻を鳴らしている。
すでにリングではシンディのパフォーマンスが開始されている。
「謝っても無駄だ!! もし怪我をしたら、どう責任を取るつもりだったんだ!! アルゼンチン公演の際にはお前たちのサーカス団について大々的にニュースで取り上げてやったというのに、恩を仇で返されたもんだ!!」
「ごめんなさい……。俺が下手くそなばかりに……」
ジェロニモは項垂れている。これがまともな客であれば、「ごめんね」「いいよいいよ」の二言で事は済んでいたに違いない。
「私の指導に落ち度がありました。申し訳ありませんでした」
「ヤスミーナ、謝ることなんか……」
ヤスミーナの目には涙が溜まっている。2人とも事の重大さを身に沁みて思い知らされているのだ。2人が悪いわけではない。2人のパフォーマンスにも問題はなかった。たまたま指名した客がディアナで、その父親が思いもよらぬ人間で、その男を怒らせる出来事が発生するという不運が重なっただけだ。2人の頑張りを知っているからこそ、何もできない自分に苛立ちをおぼえた。
「全く、お前らのくだらない出し物のせいで、せっかくの旅行が台無しだ!! 今後一切、お前らには手を貸さんからな!!」
憤慨したまま男は去っていき、ディアナは去り際にふっとまた鼻で笑い、ジェロニモに向かって「ちょっとは練習したら? もうぶつけたりしないように」と言い放った。
カッと頭に血が昇った。最初は堪えようとした。拳を握り締め、歯を食いしばり息を整えようと。だが無駄だった。私のことを言われるのはまだいい。だけど、歯を食いしばって努力を続けていたジェロニモのことを貶されるのは耐えられない。
「ネロ、辞めて!!」
「行くな、ネロ!!」
走り出した私の背にヤスミーナとジェロニモの声がぶつかる。
裏口からテントの外に出て行った彼女の肩を掴んだ。
「仲間の努力を笑うな!! 確かに失敗したけど、彼は1年間ずっと血の滲むような努力をしてきたんだ!! あんたのように望めば何でも手に入れられる、我儘お嬢さんとは違うんだよ!! あんたは血も涙もない、人をいたぶることしか脳がないサイコ女だ!! 井戸に落ちてイタチにでも食われちまえ!!」
ピアジェが私の胸ぐらを掴んで殴りつけた。ルーファスとアルフレッド、ジャンが駆け寄ってきてピアジェを静止した。ディアナが憤慨した様子で何かを言い、その父親がまた私を怒鳴った。その映像が無声映画を観てみたいに視界を駆け巡り、気づいたら私はどこかの海岸の岸壁にいた。
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