悪夢の再来

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 どうやらカッとなって逃走してしまったらしい。まだ入団して1ヶ月半にも満たないというのに、このまま退団なんて笑えない。  港には客船が一隻停まっている。これに乗れば逃げられるかもしれない。あの団長からも、やってしまったことの責任からも。でも、本当にそれでいいのだろうか?  ディアナにかけた言葉を後悔も反省もしていない。彼女は私の仲間を笑ったわけで、それに対して怒るのは当たり前のことだ。あんなに怒ったのは生まれてこの方初めてだった。ジェロニモのことをよく知らなければ、また、相手がディアナでなければこんなことは起きなかっただろう。  頭に来ていたのは一番に自分に対してだった。クラウンとして何も適切なフォローをできず、トラブルを回避できなかった。  空には鴎が飛び、薄着の肌に冷たい潮風が吹き付けてくる。微かな細波だけを立てる青い海の様子はどこまでも長閑だった。 「ここにいたのね」  ルチアの声がして振り返った。 「実は、私も影から見てたわ。起きたことを。あなたがテントを飛び出して行ったのを見て探しに来たの」  ルチアは隣にやってきて、目の前に広がる海を見つめた。 「私ね、あなたが頑張ってるのを見るのが好きなの。あなたはいつもおちゃらけてるけど実は凄く真っ直ぐで、頑張り屋よね」 「そんなことないよ、皆に比べたら」  ルチアは私の言葉を否定するみたいに静かに首を振った。 「あの怒ってたおじさんは、アルゼンチンの大きなテレビ局の社長さんなの。取材をしてもらったり、資金を提供してもらったりしてお世話になってたから」 「大人の事情ってやつだね」 「そうね」 「ヤスミーナも悪くない。ジェロニモだって……。当てた相手が最悪だっただけだ。ジェロニモは少しミスっただけさ。ちょっと顔に当たっただけで大袈裟なんだよ。それに、ヤスミーナに関しては責められる理由も、謝る理由もない」  ルチアは顔を伏せた。横顔が悲しげだった。 「ママがいなくなったとき、お兄ちゃんに言われたの。ここを出て行こうって。お母さんを探しに行こうって。一緒に何度も逃げようとしたけれど、そのたびに私は捕まって、お兄ちゃんは私を置いて行けないから逃げるのを諦めてお父さんに殴られる。  お父さんは私たちを捕まえたあと、いつもこう言って黙らせた。 『お前たちはここしか生きる場所がない。他に何ができる? 外に出て生きていけるのか?』って。  ごめんねって謝ると、お兄ちゃんは謝るなって怒るの。お父さんにも私が逃げようって言ったんだって、私のせいだって伝えて謝った。それもお兄ちゃんは嫌がる。  何で代わりに謝るのかって、相手が大切な存在だからよ。相手を守りたいと思うから謝るの。ヤスミーナがジェロニモに謝ったのは彼の盾になるため。彼女の責任感と優しさなの」  頭では分かっている。分かっているのだ、そんなこと。まだ付き合いは短いけれど、ヤスミーナがそういう子だということを私は知っていたつもりだった。でも許せない。あのショーを貶した偉そうな親父と仲間を嘲笑ったディアナ、そしてそんな卑しく浅ましい人間たちに媚びへつらうピアジェのことが。 「実は、あの女を僕は知ってるんだ。ディアナっていう、最低な奴だよ。前に酷い目にあってさ、もう二度と会いたくなかったのに……」 「そうだったの……」  ルチアの目が慈しむように私を見つめる。涙が込み上げてきそうになって必死に泣くのを堪える。 「アイツはジェロニモを馬鹿した。何の苦労も知らない奴が、苦労して努力した人を笑うんだ。絶対に許すもんか。アイツのことも、あのおっさんのこともピアジェのことも……。頭に来るよ。それより何より、僕は何もできなかった。何もできない自分が一番嫌いだ」 「ネロ、あなたは凄く優しいんだわ。あんまり優しすぎて、色んなことを感じすぎる。何もできなかっだなんて嘘よ、あなたは仲間のために声を上げた。頭に来るのだって理解できる。でも、ここで辞めたら絶対に後悔するわ」 「じゃあ、ピアジェに謝れっていうのかい?」 「無理にとは言わないけど……。パパはあなたをショーに出さないと言ってる。形だけでも謝らないといけないわ。皆あなたに戻ってきてほしがってる。あなたが辞めたら皆が悲しむ。あなたはもう既になくてはならない存在。皆のムードメーカーで、太陽だもの」 「僕だって皆のことは好きさ。でも、謝るのなんて御免だよ」 「なら謝らなくていい。お願いだから出て行かないで、あなたが必要なの」  ルチアの声が震えている。彼女の大きな目から涙が溢れ出し、ぽとりと灰色の地面に染みを作る。  そこで初めて、私が独りよがりな行動をとっていたのだと認識した。それが原因で自分を思いやってくれているルチアを悲しませているのだと。今この時間もショーのために奮闘している仲間のことを思うと、これ以上勝手をやって迷惑をかけたくない。私の我儘のために彼らを傷つけるのは嫌だ。それに、ケニーを1人にしたくない。彼も心配しているだろう。  以前の私なら、ディアナに対してあんなに強く出られなかった。ここまで明確な自己主張もしなかったし、もし同じ場面に出くわしたとしても声すら上げられなかった。サイコ女なんて言葉死んでも言えなかっただろう。感情的になって目上の人間に歯向かうこともなかった。でもこれも紛れもなく私だ。向き合うことを避けてきた私という人間の本当の姿なのだ。 「ごめんよ、ルチア」  ルチアや仲間たちのために、そして自分の夢のために。ここで感情的になって逃げ出すべきじゃない。いつでも投げ出すことはできるけれど、そうしたらあとで絶対後悔する。 「帰りましょう、皆が待ってるから」  ルチアが私の腕を引いた。頷いて彼女と一緒に歩き出した。      
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