夜のサーカステント

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 次に『鞭使い』をやるぞ、とルーファスが持ってきた鞭を見て、筋トレで起きたことがフラッシュバックして脚がすくんで動けなくなった。肩と背中に鞭がぶつかったときの鋭い痛みが蘇り、身体が震えてきた。男の仕打ちは、私に想像以上に強いダメージを与え、トラウマを植え付けていたらしい。  私の様子が変わったのに気づいてルーファスが「おい、なんか顔色悪いぞ」と言い、自分の手元の鞭を見て「ああ、そうか」と合点がいったように頷いた。 「地雷を踏んでしまって申し訳ない」とルーファスは謝り、少し休憩を取ろうと気を遣ってくれた。  私は深呼吸し、少し水を飲んで気持ちを落ち着かせた。他の団員はもっと辛い思いをしている。ケニーなんて毎日のように怒鳴られ無茶な仕事を投げられている。それなのにあの1日の体験だけでここまで追い詰められる自分が情けない。 「鞭の代わりに別のを使うか」とルーファスは腕組みをした。シンディが前にショーで使ったというリボンを貸してくれるというので、それを使うことにした。  10分ほど休み落ち着いたので立ち上がった。ルーファスにやれるか? と問われ頷く。 「よし、じゃあ始めるぞ」  『鞭使い』は、鞭使いのホワイトフェイス、馬鹿なアシスタントのオーギュストクラウン2人で行う古典的な寸劇だ。リングの上での動きが大袈裟になっているかや、観客の視線や自分の動きの意味を理解しているかどうかを意識するのに効果的な練習だという。  ルーファスに控え室にある小道具の中から2つに割ったら面白そうなものを選べと言われたから、二つに割られた林檎の玩具にした。  最終的な目標は鞭で林檎を割ることなので、2人は鞭がぶつからぬよう離れた場所に立っていなければならない。  まず最初にリボンを持ったホワイトフェイスの私がリングの上を歩き出す。そのすぐ後ろを林檎を持ったオーギュストのルーファスが何故か背後霊のようにぴったりとくっついて歩く。ちなみにルーファスは私に背を向けているから、距離感がおかしいことはルーファスと観客にしか分からない。  ルーファスが離れた場所に立っていると思い込んでいる私は、後ろに身体ごと振り向く。ルーファスはまた私の背中にまわる。私はいるはずのルーファスがいないので首を傾げ、次に真後ろにいるのに気づいてもう一度身体を逸らしてびっくりする。  怒った私は腕組みをしてルーファスに説教をしたあと、首根っこを掴むふりをして離れた場所に立たせる。  これをもう1回繰り返したあと、3度目の途中私の圧に怯えたルーファスは自分で所定の場所に立つ。  ルーファスは林檎を手に持って立ち、私は鞭のつもりのリボンを引いて3つ数えて素早く振り下ろす。そのタイミングでルーファスはくっついていた半分ずつの林檎を引き離す。すると観客からは林檎が割れたように見える。最後2人で林檎が割れたというのを客席にアピールする。    次は、私がルーファスに背を向けて立ち、左手で鏡を持って鏡に背後の林檎を映しながら、リボンで林檎を割る。ルーファスは自分にぶつからないかとビクビクしている。3カウント目でリボンを振り下ろすも、ルーファスがタイミングをわざと間違え、林檎が割れるのが少しずれる。  私は怒った様子で今度は目隠しをして林檎を割ろうとするが、ルーファスは恐怖に怯えた表情で身体と顔を反らせ、失敗のとばっちりを回避するために林檎からできるだけ離れていようとする。  リボンが振り下ろされ無事林檎は割れるが、ルーファスは危険なことをさせられた苛立ち紛れにむしゃむしゃと林檎を食べる。私はルーファスに怒るが、最後向き合った私の顔にルーファスが林檎を吹きかける真似をする。  激怒した私は顔を拭い、ルーファスを追いかける。ルーファスは一目散にエントランスに向かって逃げて退場だ。  こうやって演じてみるとスキットの面白さが分かる。 「あぁ、楽しかった!」 「楽しかったで終わらず、反省点や改善点を考えなければいけない。もう少し観客に分かりやすいように動いた方がいいな。クラウンの動きは誇張されていないと駄目だ。リボンを振るうのも大きな動作で、林檎を割るのもギミックーー仕掛けのことだな。例えば2度目のリボンが当たるのと林檎の割れるタイミングをわざとずらしたことをくっきり示して、本当に林檎を割るんじゃなくて仕掛けがある、つまり、元々林檎は割れてるという事実を観客に晒さないとならない。まぁ、観客は仕掛けがあることは分かって観てる人はほとんどだが、子どもにも分かるように、自分の行動を明確に表現できないとな」    ルーファスの助言を念頭に置き、2人でその動きをもう一度繰り返した。  6月22日 グアヤキル公演2日目。 今日の練習 ①即興劇  寸劇の目的を明らかにして、自分の行動を決めていくことを意識して行った。劇の内容ははちゃめちゃだったけど、その方がかえって楽しい。 ②スラッピング  タイミングを測ってできるようになった。3人でやるのは難しかったけれど、これがスムーズにできるようになればとても魅力的なショーになると思う。 ③フォール  片足ストレートのフォールをするときは怪我をしないように顎を引いてやること。 ④プルアップ  起こす側はケニーみたいにギックリ腰にならないように、中腰の姿勢で膝に力を入れる。起こされる側は背中を凍ったチャップリンみたいに真っ直ぐにすること。 反省  観客の目を意識して、自分だけでなく観ている人がクラウンの願望や目的、行動などを理解できるように動くことが大切だと思う。  ステージに立てるかすら危うい状況だけれど、少しずつ専門的なスキルを覚えていくのは楽しかった。もっとリングでの一つ一つの動きを誇張することで明確にして、観客を意識して練習に取り組もうと思う。
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