デビューまで

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 クラウンノートを書いたあと、部屋のベッドに寝そべって考えた。  前の私なら、告白されたら深く考えずに付き合ってしまっていた。心が純粋で綺麗なルチアと付き合った人はきっと幸せになれると思う。でも今の私に一番大切なのはサーカスで、それ以外の誰かや何かに心のスペースを開け渡すことは今は考えられなかった。恋愛というのは真剣になればなるほどエネルギーが要るものだと思う。  果たして私に全てを賭けて愛せる人など現れるんだろうか。現れたとしてその人を傷つけること、自分を曝け出すことへの恐怖を超えていけるんだろうか。  下のベッドのミラーが寝返りを打つ。「ごめんなさい、お父さん……」と寝言を言いながら。  彼を悪夢から引き摺り出すために、そして自分のネガティブ思考を断ち切るために大声でヨーデルを歌った。  ガバッとミラーが起き上がり、「何だなんだ?!」と驚いた。 「うなされてたから起こしたんだ」 「そうだったのか……。それにしても、もっと別の起こし方にしてくれよ」 「分かった、今度からはビリー・ホリデーを歌うよ」 「『暗い日曜日』のことか? 余計気が滅入りそうだ」 「ルチアが列車の窓から飛び降りようとしたの、君は知ってるかい?」 「ああ、ケニーから聞かされたよ。ルチアを問い詰めて、二度とそんなことすんなと怒ったら泣かれた。アイツは子どもの頃から繊細すぎて、気持ちが不安定なところがあるんだ」 「何となく分かるよ、凄く優しい子だもんね」  ルチアを今日泣かせてしまったなんて言ったら、ミラーは激怒するかもしれない。何だかんだ、彼も妹のことが大切みたいだ。ただでさえルチアは妹気質というか、誰にでも可愛がられるような、気にかけて大切にしたくなるような魅力がある。 「優しすぎるのも困りものだよ。俺は気がかりなんだ、彼女がサーカス以外の世界に出たらやっていけんのかって」 「彼女には幸せになってほしいね」  傷つけてしまったからこそ思う。彼女は私のような半端者ではなくて、もっとしっかりした、嵐にも雪崩にも動じないほどに心が強くて広い人と付き合ったほうがいい。そんな人、いないかもしれないけれど。少なくとも母アンジェラのように、狂った人間の支配下に置かれてマインドコントロールされ心を壊すような不幸を味わってほしくない。  しばらくしてまたミラーの寝息が聞こえてきた。  列車が線路を走行する音と振動だけが暗い部屋を揺らしていた。
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