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そんなこんなで、いつしかこの枚数になってしまった。時折スクロールを止め、淳の整った横顔を眺め見る。でもこの頃になると、だんだん淳の表情に、ある種の「不安」のようなものが浮かんできているのがわかった。
でも、私はおかまいなしに撮り続けてしまった。
写真のアプリを閉じると、今度はラインを開いた。そこには、先日入力してそのままになっていた、「助けて」という文字があった。
「……あいつはネギ女。私は、ゴボウ女」
繰り返し、心の中でそう呟きながら、スマホを強く握りしめた。
「このままあいつがいなくなっちゃったらーー私はずっと、ゴボウ女のままだ」
「助けて」、というラインのその文字を、私は一文字ずつ削除していった。
▪️
下北沢からめっきり足が遠のいてしまって、しばらくたつ。
駅前の再開発も一区切りがついて、以前にも増して人の数が多くなった、そんな気がする。
三軒茶屋にユニクロができるまでは、実はコソコソ自転車で、下北のそれに買い物に行っていた。偶然淳と出くわさないかと、内心ヒヤヒヤしながら。
淳の住む部屋は、駅から北の方角に十分ほど歩いた場所にあった。一番街を入って坂を上り、角を一つ折れると、コンクリート打ちっ放しのデザイナーズマンションがある。
二階の淳の部屋には、まだ電気がついていなかった。
宅建の資格を持っていて、不動産関連の会社に勤めている淳は、残業も日課になっている。たぶん今日もその通りで、でもそろそろ帰宅する時間だろうと思う。
私は、近くの電柱の陰に隠れて彼を待った。
夜空には、煌々と白い月が輝いていた。あの月の浮かぶ宇宙空間は、きっと想像できないくらい寒いんだろうけど、その月を眺めてるここ東京世田谷区は、超がつくほど蒸し暑い。街全体から始終放出されるクーラーの室外機の熱が、まるで体にからみついてくるようだ。
こうやって、じっと淳の部屋の建物を眺めてるだけで、これまでの彼とのさまざまな思い出が、次から次へと脳裏によみがえってきていた。
映画やドラマが好きな淳は、あるとき自分も書いてみたい、とふと思いたち、半分趣味みたいな感じでいまもシナリオを書いている。
青山にあるシナリオ教室の生徒でもあって、そこで授業の一環で、超短編シナリオみたいなものをいくつも書いていた。
それを、淳の部屋で朗読してもらってよく聞いた。
なんだかよくわからない、不思議で難解なものもあれば、ときおりハッとするくらい面白いものもあった。素直にそう褒めると、彼は照れ臭そうに、でも嬉しそうに笑った。
……そんな淳に、あのネギ女の話をしたら、なんていうだろうか。
そのとき背後に、人の気配を感じた。
振り返ると、首元のネクタイをゆるめ、仕事の疲れを通り越して、呆れと多少の怯えのまぜこぜになったような、そんな表情の淳が立っていた。
彼はローソンの袋を右手に提げていた。それで自分の読みは外れたのだ、と思った。仕事帰りに、一番街にあるローソンに寄って来なければ、道順的に私の正面から、彼はやってくるはずだったのだ。
「お前、そこで何やってんのーー」
彼はそう言って、道端に落ちてるなんだかよくわからない汚らしいものを見るように、私を見つめていた。
「……なんだよ。またストーカー行為かよお前」
彼の声は、ほんのわずか震えていた。
「……お別れを、言いにきたの」
確かに、私はそう口にしたつもりだった。でもその言葉は、妙によそよそしく響いた。
例えば舞台の俳優さんが、台本の内容をまったく理解せず、でも気持ちだけは過剰に込めて発した、そんなセリフの一行のような。
淳は、少しあっけにとられていた。目を見開いている。
「何かあったのか」
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