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と思ったら、今度は女はすぐさま壁に当たったネギを真垂直に振り下ろしてきた。それが私の背中の背骨をなぞった。ゾッとして、痛む右膝にむち打って全力で走る。それでもすぐ背後の暗闇から、女のネギとそれを持ってない方の左手が伸びてきて、私の髪をひっつかんで後ろに引きずり倒されそうだ。
私はついに大声で、
「イヤアアアアアアアアッッッ!!!」
って叫んだ。
叫んだものの、特に誰かが近隣の家から顔を出してくれるわけでもない。私は生まれも育ちも根っから東京だけど、つくづく同胞は冷たい、と思った。さっきから車輪を激しく回転させるようにして走ってるんだけど、背後の女と一向に距離が離れてる気がしない。むしろ走れば走るほど、前に進むというよりその空回りで足元にズブズブとはまっていくような、そんな感じがして、いまにも女の手が私の肩をつかんできそうだ。
……絶体絶命だった。
二十五年間生きてきて、「絶体絶命」なんていう状態に自分がおちいるなんて、思ってもみなかった。だってついさっきまで、自分は渋谷の職場でいつもどおり働いて、いつもどおり仕事を終え、いつもどおりに帰宅してきただけなのだから。
それがいまじゃ、絶体絶命。生きた心地がしない。
「アキレスと亀」って話を聞いたことがある。いっくら俊足が自慢のアキレスでも、鈍重な亀は亀で一歩ずつ前に向かって進んでいるのだから、アキレスは永遠に亀に追いつくことはできない、っていう。
自分はいつしかその亀になっていたのか、無我夢中に走っていたら、知らない間にあの女の気配は背後から消えていた。
気づいたら、三宿の方まで来てしまっていたようだ。
「……助かった、のかも」
薄明るい街灯に照らされた住宅街の一角に立ち止まると、その場で息を整えた。でもまだ心臓がバクバクバクバクいっている。
必死に逃げている間、しきりに考えていたことがあった。
それがさっきから、気になって仕方がない。
女は、背後の暗闇から、私に向かって繰り返し、
「覚えてろ!」
と叫んでいたのだ。
「……覚えてろ?」
身に覚えがなさすぎて、違和感しかない。
いったい、どういうことだろうか。私があの女に、どこかで何かしたとでもいうのだろうか。
三軒茶屋の路上で、ネギを持った女に襲われなければならない理由など、私には何一つ思いつかなかった。
気を抜いたら、例の右膝が急にまた痛んできて、気づけば私は裸足だった。かかとの折れた方のハイヒールもろとも、どこかに脱ぎ捨ててきてしまったらしい。
力が抜けて、その場にへたりこんだ。生ぬるいアスファルトのゴツゴツした感触をお尻に感じる。路地には人っこ一人いない。
これからもう1度、歩いて自分の家に帰るなんて、ほとんど不可能ごとのようにさえ思えた。
▪️
その夜に痛めた右膝を見てもらいに、休日に病院に行った。
でも、「ただの打撲ですね」と言われて、湿布を処方されて終わった。
そりゃあ、確かにそうなのかもしれないけど。でも自分には、強い、強い不満が残った。
その、「ただの打撲」に至るまでの経緯がーー何より重要だからに決まってる。
あんなひどい経験をして、「ただの打撲ですね」とかって結果に至った人間は、日本中探しまわっても、きっと私一人だけなんじゃないだろうか?
お医者さんというのは、そのケガに至った経緯なんていうのは、いちいち相手にしてらんないのはわかってる。彼らはただ、目の前の患者さんの悪い部分をなおすためだけに存在しているからだ。
その「経緯」を専門に取り扱っている人々は、また別にちゃんといる。
警察だ。
でも私は、あの日の夜の被害届を出してはいなかった。
どうしても、そんなことをして何か意味があるだろうか、と思えてならないのだ。
これがたとえば、アパートの隣の住人の人とかだったら、迷わずそうするだろうけど。でも今回の件に関しては、妙にその現実っぽさを欠いている。
いま思い返してみても、ただの悪い夢だったんじゃないかって、感じるのだ。
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