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「もう立派な大人じゃない。で次、もしまた出会ったら、今度はその場ですぐに警察に電話するんだよ……わかった?」
私がしばし呆然としていると、真美のスマホにラインが着信した。それを取り上げて、一目見る。と、急にソワソワし始めた。
「……あ。てかゴメン、これから私、渋谷行かなきゃなんだ」
「渋谷? どうして」
「彼氏と待ち合わせ」
「カッ」
「今年の夏休みにさ、ディズニーシー行くんだ。その打ち合わせ? 二人で行くの初めてだしさ、もう超楽しみで!」
その話を聞いた途端、お腹の下の方に、どーんと何か黒々としたものが溜まっていくのがわかった。
ディズニーシーディズニーシーディズニーシーディズニーシーディズニーシーディズニーシー、と心の中で般若心経のように繰り返してお地蔵さんみたいになってる私を置いて、真美は伝票を取り上げると、じゃあね、なんかあったらすぐ電話しな、って言って、そそくさと席を立っていった。
▪️
職場で仕事をしていても、まったくの上の空だった。
電話に出ていても、パソコンに向かっていても、あのネギ女のことばかりが、頭に浮かんでくる。
……特に、強い根拠があるわけでもない。
でも直感で、いつかまた自分は、必ずあの女に襲われるだろう、っていう、そんな確信があるのだった。
でも、なぜだろう。なぜ、そうまで強く思えるのだろう?
この直感は、決して目を背けられないたぐいのものとして、私の目の前にぬりかべみたいにずっと立ちふさがっているのだ。
こうなると自然、だったらなんとかして、その遭遇することを避けられないか、という、そんな発想になってきた。
で、いつもの決まった帰り道を変えてみようか、と考えた。
でも、これはきっと意味がない。
なぜなら、どうしたって、自分はあの部屋に帰りつかなければならないからだ。たて込んだ路地の一角にある私の部屋は、もともとあった縫製工場かなにかを作り直したという新築マンションで、下町っぽい雰囲気のあるあのあたりは、行き方をどう変えたところで、その狭くて暗い路地を通っていかない限り、決してたどりつけないのだ。
そのことは、部屋探しの時点でも、不動産屋さんから前もって言われていた。でもそれだけを理由に、あの好物件の部屋をあきらめる、という手もなかったのだ。
じゃあ、いったいどうすればいいのか。
……淳。
「……」
私は目を伏せてまた考えこむと、身を入れずにもう一度、目の前のパソコンの画面に向き直った。
その日の仕事の帰り、田園都市線に揺られながら、私は思い切って、スマホのラインのアプリを開いた。
震える指で、淳の名前をタップする。
そして、一か月ほど前から途切れたままの状態のメッセージのやり取りに、目をやった。
……ていうか、本当は見たくない。
でも、見なきゃならない。
「死ねよお前なんか」
そんな、淳の一言で終わっていた。
その、最後のメッセージに対して、
「助けて」
って試しに入力してみた。
目の前の窓に映る、つり革を持った自分と目があった。私のまわりの帰宅する人々も、みな一様に一人残らず、疲れ切った顔で一心にスマホを眺めている。
自分の入力した、その「助けて」という言葉を、今度はジーッと見つめ直してみた。
そしてやがて、自分の中にじんわりと浮かび上がってくるだろう感情はーーいったいどんなものになるのか、観察してみた。
すると、そこに現れたのは、やっぱり予想したとおり、なんらかの淳に対する、「反抗心」のようなものなのだった。
「……」
そりゃあ、確かに、自分は彼と付き合う中で、少々人の道に外れたことをしてしまったのかもしれない。
そのおかげで、私と淳との関係は、ここまで修復不可能になってしまったのかもしれない。
でも、だからって、これほど人を無下に扱ってもいいものなのだろうか?
いくらラインのメッセージとはいえーー元恋人に対して「死ね」なんて口にしてもいいものなのだろうか。
そんな淳に、いま無力にもこちらから助けを求めるのは、まさに自分の非を非として全面的に認めることになるのに決まっていた。
……それは、やっぱり、自分は嫌なのだ。
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