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ネギ女現わる、の巻
右足のヒールのかかとが折れちゃってて、もう余計に心も折れてくる。
転んだ場所がちょうどゴミ捨て場の近くで、燃えるゴミの日は明日のはずなんだけど、夜のうちにもう出してる人が何人かいて、それがさっきから臭ってしょうがない。
この場から離れたくてたまらないんだけど、怖くて動けないのだ。
息を止めて、そっと顔を出し、路地裏の向こうに目を向けた。と、さっきの女の影がーー正面のカベに街灯の光で影絵のように照らし出されてて、ヒッ、と声を上げそうになった。その影は、キョロキョロとあっちを見、こっちを見して、この私を探してる。
……待って。ヤバい。超怖い。
でもこういうときって、いったいどうすればいいんだろう、って、ずっとパニックになっててしばらくわからなかった。大声を上げて、周囲に助けを求める? それとも、スマホで警察に電話する?
でも、その二つとも、積極的にしたいとどうしても思えないのだ。
なぜなら、そうするためにちょっとでも声を出しただけでーーあの女はまた、あの大きなネギを振りかざして、私を襲ってくるような、そんな気がするからだ。
声だけじゃない。なんなら私の体の匂い、ほかにも何か私が発してる、よくわからないものーーそんなものまでをも鋭くキャッチして、あの女はこの私を見つけだすんじゃないか、って思えるからだ。
きっとそうだ。だから少し生ゴミ臭くてもここで我慢して、このままジッとやりすごした方がいい。
さっきからずっと右膝が痛くって、見ると転んだときにガッツリすりむいてたらしく、ストッキングが破れて血がにじんじゃってる。痛みをこらえて、その場に立ち上がる。ゴミの入った「カラスいけいけ」の枠で体を支えて、背筋を伸ばして直立し、またじっと息を潜めた。
たとえばまだ季節は早いけど、セミの鳴き声だとか、それともまわりの家からテレビの音が漏れてくるとか、そういうのがちょっとでもあればいいんだけど、さっきから周囲は凍りついたように静かだ。三軒茶屋も表通りはいつもにぎやかなんだけど、少し裏路地に入れば、すぐにもこんな風にひっそりとする。なぜかはわからないけど、あの女がどこかで耳をすませてるのがわかった。私がちょっと鼻をすすっただけでもーーきっとすぐに、その存在を察知するだろう。
そんな風に考えてると、ふいに目の前に、何かの気配がした。見ると足元で、二つのものがキラリと光ってる。
猫だ。
抜き足差し足で、ゆっくりと私の方に近づいてくる。
……待って。来ないで。
私猫は根っから大好きなんだけど、このときばかりはマジでかんべんして、って思った。
その小柄な黒ブチの猫は、さらに一歩二歩足を進めると、私を見上げて、
「ニャーッ」
って声を上げた。
「……そこかっっっ!!!」
怒号のような声が聞こえて、全身が凍りついた。女はすぐ背後の路地にいたようで、茶色いトイレで履くようなゴムのサンダルの繰り返しアスファルトを蹴る音がこちらに向かってくる。
「……イヤッ!」
叫んで私はその場から全力で駆けた。それと女がすぐ横から姿を現したのが、同時になった。
「お前待てぇ!!」
残忍なその声と、何かが一瞬空気を切り裂く音が聞こえて、私の顔を鋭いものがかすめた。きっと女がネギを振り回したので、運よくかすめただけで済んだそれは、すぐそばの壁にバシッ、とかベチャッ、とかいった音を立てて当たった。きっとネギの緑色の部分が含んでる、水分みたいなもののせいだ。
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