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はじまりの春
この秋、兄が婚約した。相手はとても綺麗な人らしい。らしいというのはオレは実際に見ていないからだ。顔合わせをした父からの情報だった。テレビに映る女優を挙ってキレイと言う父の発言にはあまり信憑性はなかった。
そりゃまあ多少の興味はあるけど。なんせこれから家族になる人なのだから。
あいにく、修学旅行中で顔合わせに参加できなかったオレは今度その人と会うときのために手土産を持って帰ってきた。いつ会えるかはわからなかったため食べ物はやめておいた。
「冬馬もいつの間にか気が利くようになって……兄さんも嬉しいよ」
泣き真似までして大袈裟な反応をするのは、きっと今人生で最高にハッピーなオレのアニキ。大学進学に伴い県外へ出た兄は今年で24歳を迎える社会人だ。オレとは10歳の年の差だった。
「いつまでも子供扱いしてるなよ、アニキ。俺だって来年はもう受験生なんだから。すぐに高校生になる」
張り合ったところで年の差は縮まらないのに。こういうところが子供だと言われる所以かもしれないが、オレがこう主張するのにもそれなりの理由があった。それは今年、春の出来事だ。オレのちっぽけでだけど誇れる――武勇伝とでも言おうか。
ちょうど朝の通学時、バスに乗っていたときだった。通勤ラッシュで車内はギュウギュウ詰め。おまけに各停留所で止まるものだからブレーキの度に右や左に体は傾いた。それは他の人も同様でもはや接触しない方が難しい状況だった。それでも頻りに接触してくる隣の人にオレは少しばかりイライラしはじめていた。他の乗客も、なるべく邪魔にならないようにバックを前に抱えたりして我慢しているというのに。
なんだよ、この人、自分のテリトリーがそんなに大事か?
それがオレの抱いた初めの気持ちだった。そして顔を拝んでやろうと横目に睨んだとき、オレは自分のその気持ちが浅はかだったと思い知る。隣のその人は目いっぱいに涙を浮かべていた。
「!?」
そしてオレと目があった瞬間、何故だがぎこちなく微笑んだのだった。その拍子に落ちる数滴の涙。俺は訳がわからず目を逸らした。しかしその人はオレの気持ちを汲み取ったように小声でこう言ったのだった。
“ごめんなさい。ぶつかってしまって”
不機嫌が顔に出ていのだろうか、とても申し訳ない気持ちになった。仮にも女の人に、しかも泣いている人に――。
しかしそこでふと思う。どうしてこの人は泣いているのだろうか。体調が悪いようではなさそうだが。感動する本を読んでいるわけでもなさそうだ。そして再びの急ブレーキ。車内の乗客は皆一気に進行方向へと押し込められた。そのことで突如現れた空間にオレは見てしまった。背後にいるスーツを着た小太りのオッサンの下半身から不自然に露出したイチモツを。直後身の毛がよだった。ズボンのチャックから器用に出したソレを、恐らくいや間違いなくオレの隣りにいたあの女の人に押し当てていたのだ。
泣いていた理由も頻りに体が接触していた理由もこれだった。この人は痴漢から逃れようと必死に身を捩って抵抗していたのだ。オレは全身が熱くなるのがわかった。体格差はあったがそんなことは構わずオレはその汚らわしい手を掴んだ。
「やめろよ、オッサン」
「!!」
オレは嫌悪剥き出しで凄味をきかせた。車内は未だ満員状態だ。オレはオッサンの手を掴んだまま次の停車場まで待った。もちろんこれ以上悪さをしないようずっと見張りながら。それからバスの運転手に事情を話し対応してもらったのだった。
学校こそ遅刻してしまったが、オレはなんだか清々しい気分だった。痴漢遭遇自体は胸くそ悪かったが、人助けをできたことが誇らしくてほんの少しだけ大人になれた気分だった。このことは遅刻を叱ってきた先生にも、小言を零す親にも結局言わなかった。
これがオレのちっぽけで誇れる武勇伝だ。
それからバスに乗るときは周囲を気にするようになった。あの小太りのオッサンを見かけることももうなかったが、被害に遭っていた女の人は度々見かけた。そして軽く会釈する仲になっていた。中坊が大人の女性に会釈だなんて、何だか大人に仲間入りした気分で照れくさい。助けたその人はお礼をさせて欲しいと何度か説得してきたが、オレは全て断っていた。悪いのはすべてあのオッサンであって、そもそも人助けにお礼をするのは違うとと思ったからだ。それにあのとき、この人は目の合ったオレに助けを求めるではなく、苛立つオレを気遣い謝ってきたのだ。そんな自分にお礼は必要ないと思った。
「あの、お礼は諦めるので……せめて名前だけでも教えてもらえませんか?」
あるとき、珍しく空いた車内でその人は言った。名前だけならと思いオレは教えた。
「トウマ。冬の馬って書いて、冬馬って言います」
どうしてだろうか。どうしてこのときオレはその人に下の名前だけを言ったのだろうか。
それは多分対等に見られたかったから。少しでも近づきたかったから。そんな小さな出来心かもしれない。
大人のくせに笑うと少女のようなあどけなさを見せるこの綺麗なお姉さんに、オレは束の間目を奪われていた。
「あの、オレも名前聞いていいですか?」
その綺麗なお姉さんは“ハル”と名乗った。まさに今の季節と同じ名前だった。
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