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「あっ、いたいた!……またお前、鬼婆に落とされたんだって?」
休憩時間のチャイムが鳴ると、一言多い同僚の彼、a-21は僕の肩を叩いて笑う。ちなみに『鬼婆』と言うのは、あの女主任の渾名だ。
「なんか嫌われてるみたいだからね」
僕は気落ちすることもなく肩をすくめる。
僕らのシステム管理業には、普通の仕事とは違い、仕事の頑張りや管理数値の上昇によって年に2回の『昇格』がある。
普通の仕事だって『昇格』ぐらい、と思うかもしれないが、僕らの『昇格』は意味が違う。
個人の管理数値に基づいたデータと、主任クラスの推薦があることが必須条件であり、その条件を満たしたものは『管理に縛られることのない自由』を得られる、らしい。
何故「らしい」なのかは、そこから降格したものがいない、だから誰もその先を知る由がない。それでも幼い頃から縛られて生きていた僕らからすれば、飛びつくぐらいの謳い文句には充分だった。
「なぁ、a-21」
「何?」
「昇格したいか?」
僕の問いに眉を顰めた彼は、「なんだぁ、焼いてんのかぁ??」と悪戯っぽく笑う。
「いや、違うよ……ほら、なんか目の前に人参を吊り下げられた馬みたいだなぁって……」
「バーカ、何捻てんの」
僕の愚問を鼻で笑った彼は、わしゃわしゃと僕の頭を乱雑に撫でる。
──あっ。
ふとその時、今朝からの疑問が頭に浮かぶ。僕は彼にも、主任にした質問が無性にしたくなったのだ。
「お前ってさ……自分の名前、覚えてる?」
「名前?」
数秒の沈黙の後、a-21は首を捻ると「名前……かぁ」と考え込む。
──やっぱり。
昔は親につけてもらうのが当たり前であった名前は、いつ皆の頭から逃げ出したんだろう?
彼の反応を見ながら、僕は一緒に首を捻る。
──なのに、なんで主任はあんなに驚いたんだろう?
覚えていないのが当たり前の社会で、彼女だけが動揺していた。
「まっ、そんな昔話なんか別にいいじゃん」
無駄話を逸らすように話を切り上げた彼は、
「そんなことより」と前置きして口角を上げた。
「俺……今期、昇格するんだ!」
「えっ、嘘?!」
「本当」
さっきとは打って変わってにんまりと頬を緩ませる彼は、ピースサインを俺に作ってみせる。
「良かったじゃん!……スゲー」
「おう!まだ内示だから言いふらすなよぉ?……んじゃ、お先に待ってるぜ」
僕の方に手を置いたa-21は、後ろ手でひらひらと手を振って通り過ぎてゆく。その後ろ姿をただ眺めていた僕は、何とも言えない劣等感に包まれた。
同年は管理職、同期も昇格……。
僕だけが取り残されている気がして、行き場のない感情をまた溜め息に乗せて笑う。
「お兄さん……溜め息吐くと、幸せ逃げるよ?」
聞き慣れない可愛らしい声に振り返った僕の前には、僕の胸ぐらいの身長の男の子が立っていた。猫のように柔らかそうな髪は明るい茶色で、白衣を着ている。
「君は?」
「ん……内緒。……ところでお兄さん、管理数値がかなり高いのに、何で昇格しないの?」
「……さぁ、分からない」
少年のような見た目だが、言っていることはかなり鋭い。僕の本能は、何故か危険だと脳内に警鐘を響かせている。
「じゃあ、昇格する?」
「えっ……?」
情報量の多さに混乱している僕は、素っ頓狂な声を出すと、吸い込まれるように澄んだ翡翠色の少年の瞳をまじまじと見つめた。
「ふーん」
品定めでもするように僕を見返す少年は、楽しそうに笑うと「バイバイっ!」と手を振って走り去っていく。こんな短いやり取りのはずなのに、体がどっと疲れているのがわかる。
「あの子……何者なんだろ?」
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