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慣れぬ逃亡生活で男の見た目はボロボロだった。衣服だけではない、疲労により血色の悪くなった肌に、痩せこけた頬。そして、ギョロリと血走った、すでに正気を失った瞳でセレスを睨み付ける。前屈みでセレスに近付く男は、腹の前でナイフをしっかりと両手で握り締めており、恐怖と混乱で立ち尽くすセレスを刺殺する気に満ちていた。
そんなセレスの絶体絶命の場面に、突如として現れたのがシークである。
教会の裏口から入ってきたという彼は、あっと言う間にセレスの前に立つと男の腕を捻り挙げた。そのまま地面に倒して動きを制すと、他の仲間が来るまでの間セレスに世間話を振ってきた。
「正直なところ、この人大丈夫かなって思いましたけど」
一歩間違えばナイフで刺されていたかもしれない。なのに、そんなセレスに向かい「最近急に寒くなりましたよね」だとか、「でもおかげで魚が美味い」とか、「魚の鍋料理とか食べた事あります? あ、肉食だめなんですかね? でも魚なら大丈夫ですか?」などという、本当にどうという事はない話をずっと振ってきたのだ。
「聖女サマの緊張と恐怖を少しでも取り除いてやろうというお気遣いじゃないですかー」
「しかも犯人の背中を膝で押さえ付けて、腕はねじ切るんじゃないかなって思うくらい力入れてて、呻き声あがってるのに全然気にしてなくてですよ! あなたに対しての恐怖しかありませんでしたけど!?」
取り押さえられた男は、駆けつけてきた他の警邏隊によって連行された。被害者であるセレスにはひとまず休息を与えられ、翌日改めて事情聴取を受ける事となった。その時にシークも傍におり、それ以降何故か毎日教会で顔を合わせるようになってしまったのだ。
「あの屑野郎の悪さがバレたのって、聖女サマが縁切りを祈った翌日だったんですよね。それまで疑惑はあっても尻尾を一切掴ませなかったってのに、まあ出るわ出るわ。ボロボロ出てきて、それで一斉逮捕に踏み切ったんですよ」
まさに奇跡としか言い様のない出来事だったのだと、シークはうんうんと何度も頷いているがセレスとしては苦虫を潰した様な顔になってしまう。
そのせいで襲われたから、というのも勿論だが、それ以上にセレスにとっては不名誉すぎる噂が広まる切欠となったからだ。
縁切り聖女――そう呼ばれる様になった全ての元凶である。
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