一辺六フィートの幻影

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 睡眠不足であるにも関わらず、その日の晩、カマエル氏は冴えざえとした両目で天井を睨んでいた。  ベッドに潜り込んでから数時間、脳裏に浮かぶのは絨毯の模様と、そこを舞うように歩きまわるあの美しい女のことだった。  時折身を起こして脇に置いてある懐中時計を見ては、組んだ両手を枕に乗せて仰向けになった。表の通りで野良猫同士が喧嘩の声をあげ、馬車馬の石畳を叩くような足音が鳴り響く。  輾転反側を繰り返していたカマエル氏はとうとう上掛けを蹴りあげると、室内履きに両脚を突っ込んで寝室の出口に向かった。  ところで寝室の隣にある居間だが、ただでさえ手狭な上にカマエル氏が蒐集した物品の数々が占拠しているため、空間が極端に限られていた。そのため例の絨毯に関しても、寝室から扉を押し開けようものならドアが毛並みのすぐ上をかすめるほどだった。  今回もそのように扉が開くものだと思っていた氏の予想に反して、ドア板がすぐに固い何かにぶつかって動きを止める。  何かが倒れてつかえているのか。そんなことを考えながら、わずかに空いた隙間に身をねじ込んだが、部屋の様子は最前アンナが整頓したときと変わらない。  はたして、ドアは見えない何かによって阻まれていた。  それは絨毯が作り出した結界とでも言うべきものか、ぶ厚いガラスのように向こう側を映しながら仄青い光を放っていた。どうやら絨毯は内側から出ることを許さないだけではなく、外側から何かが侵入することも拒んでいるようだった。  プリズムが頬を撫でるなか、カマエル氏は定位置のソファへと向かうべく、壁に張りついた姿勢でカニのような横移動を始めた。鼻先まで迫った見えない壁に触れる勇気はさすがになかった。  人魚の涙が入ったと言われる小瓶を足でどかし、鳳凰の雛が孵ったという中国伝来の籠を跨いで、どうにか窓に面した広い空間に出ると、カマエル氏は思わず安堵のため息をついた。それから結界をまわりこんでいくあいだも、絨毯の上で舞うように歩く女からは一度たりとも目を離さなかった。  女を見守りながらたどりついたソファに身を預けた途端、あれだけ訪れなかった睡魔が唐突にやってきた。それまでまばたきをすることすら惜しんでいたカマエル氏のまぶたが落ちると、たちまち眠りへと吸いこまれていった。  意識が暗転する直前、耳元で女の囁きを聞いた気がした。  こちらへいらして、と。
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