一辺六フィートの幻影

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「こうして触れ合っていられるのは恐悦ではありますが」カマエル氏は、自分の声がうわごとのように震えているのを聞いた。「そろそろ文化的な話でもしませんか?」  そのとき、女の表情に変化が起きた。  唇が上下に開き、そこから歯が覗いたのだ。それはカマエル氏が密かに夢想していた、黒い肌から際立つ白さはなく、くすんだ茶色をしており先端も鋭利に尖っていた。猛獣が威嚇するときのように歯を剥く女の目は爛々と輝いていた。そしてその表情には、これまで浮かべていた微笑とは比べ物にならないような喜びが発散されていた。  唇に続いて上下の歯が離れると、大きく開いた口の中で熟れたプラムのように赤い舌がうごめいた。女の口が虎ばさみのようにさらに大きく開き、ついには左右の口角が裂けはじめる。  きっとここが寒くて乾燥しているからだろう。  カマエル氏はそんな場違いで能天気な考えを浮かべながら、目の前で起きている女の変化を見つめ続けることしかできなかった。  いまや口の裂け目は頬を横切って耳にまで達しようとしていた。それに伴ってくすんだ歯は深海魚のそれのように長く伸びてゆき、二倍以上も大きくなった両目は猫科動物のごとく瞳孔が縦に細くなっていた。  思わずあとずさった足に何かがぶつかり、カマエル氏は後ろに倒れ込んだ。腰を降ろしたのがソファの座面の上だと気づく前に女の大あごがいきおいよく閉じ、鼻先で金属的な衝突音をたてる。その拍子に手を握っていた力が弱まったので、氏は背もたれの上を転がるようにしてソファの裏手へと逃げ込んだ。  あのまま呆然としていたら、鋭い牙によって目鼻ごと顔面を削がれていたかもしれない。  立ち上がったカマエル氏は、倒れたソファを挟んで女と向かい合った。その容貌はもはや美しさの欠片もなく、カマエル氏を見つめる視線にも純粋な欲求しか兆していなかった。  氏もまた、狼に襲われる子羊のような気分を味わっていた。間違いなく女は自分を食べるつもりだと、理解していたのだ。  恐怖が極限にまで達したカマエル氏は一転踵を返して女に背を向け、脱兎のごとく駆け出した。目の前にある結界に触れることへの危険など埒外のことだった。自宅の窓には当然ガラスがはめこまれていたし、世界中のめずらしいビードロ細工を買い集めてもいた。  にも関わらず、いまのカマエル氏の頭の中には、向こう側が透けて見えるのだから通り抜けられないことはないはずだ、という道理ばかりが先行していた。  結論から言うと、カマエル氏が結界に激突することはなかった。それどころか、ぶつかったという感覚すらなかった。氏は絨毯の中心に据えられたテーブルに背を向けて駆け出していたのだが、次の瞬間そのテーブルが目の前に、そしてその傍らに女の後ろ姿があらわれた。  先回りされたのか。そう考えながら立ち止まるべくその場で足踏みをし、いきおいあまって背後に倒れこむ。  一昨年の冬、スイスのサンモリッツを旅行した折にスキーに興じたことがあったが、運動神経がいいとはいえない氏が最初に覚えたのがこの安全な転びかただった。  あのときの経験が活きたな。カマエル氏の頭の隅で、またしてもそんな能天気な考えが浮かぶ。当然その思考は、いまのこの危機的な状況において余計でしかなかった。  突如として目の前にあらわれた女はこちらをゆっくりと振り返ると、歯を噛み鳴らしながら一歩ずつ近づいてきた。腰の左あたりが天板をすり抜けても、テーブルは微動だにしない。カマエル氏は足を突っ張り、両手も使って後ろへと這い戻った。  一辺六フィート。  この数日間仔細に観察していたその広さは、既にカマエル氏の感覚に刻み込まれていた。ゆえにそろそろ絨毯の端に差しかかるであろうことも承知していた。  ところが先ほどと同じように結界の境目、つまり壁のように立ち塞がる何かに当たることはなかった。盲人がするように伸ばした右手で床じゅうをまさぐったが、何かを探り当てる感覚はない。いや、実際にはきめの細かい感触が指先に当たっているのがわかった。  そしてそれは、いま身体の脇に置いた左手に触れているものと同じものだった。
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