一辺六フィートの幻影

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 そうしているうちに、女がカマエル氏の目の前に立ちはだかっていた。  万事休す。だが逃げ場を失った氏が覚悟を決めかねているなか、女が突然反転して背を向けた。  その女の向こう、ちょうど結界の対面にあたるところで、床の上を何かが動いているのが見えた。  暗がりのなかではあったが、仄青い光のおかげでそれがなんなのかはよくわかった。  人の右手だ。それも左右に動いて絨毯の上をまさぐっている。  それを目にしたカマエル氏の胸に去来したのは、この結界に閉じ込められた別の人間、ひいては協力者がいるという可能性に対する安堵ではなく、絶望だった。  カマエル氏が右手を右へ動かすと、寸分違わぬ瞬間にその右手も右へと動いた。氏は次に人差し指と中指を残して手を握ろうとしたが、すでにそこまでして調べる必要を感じなかった。氏の手が震えているのと同じように、その手もまたかすかに震えていたからだ。  ここにきて、カマエル氏ははじめて自分を肩越しに振り返った。背中を向けているとはいえ、女がまだ近くにいるということは歯牙にもかけなかった。  はなして、絨毯の縁を境にカマエル氏の前腕部は中程から消失していた。  だが痛みはない。消え去った先の感覚もまだ残っている。  まさか、と直感して前に向きなおると、ちょうど女が絨毯の反対側、誰かの右手があるあたりで腰をかがめていた。  それからその右手をつかむと、同時にカマエル氏の前腕部を万力で締めつけるような痛みが襲いかかってきた。  声をあげる間もあらばこそ、カマエル氏は後ろへと引きずりこまれた。背後の結界に触れた直後、対面の結界から誰かの後頭部が見えた。いや、あれは自分の後頭部だ。  女に結界の中へとひきずりこまれ、同時に結界の壁の中から引きずり出されたカマエル氏は、次の瞬間恐るべき膂力によって宙を舞っていた。百四十ポンド程度と平均的ながら、女は男性一人を片手で軽々と投げ飛ばしてしまったのだ。  目の前に透明の天井が迫る。  今度はどこにすり抜けるのだろうかという予想に反して、カマエル氏はそこにしたたか顔面を打ちつけた。  丸めた肩から床に叩きつけられる。昏倒しかけながらも頭をかばっていなかれば、首の骨を折っていたかもしれない。  顔をあげたカマエル氏は、いよいよ絶句した。いま氏は、最初のものとは別の一辺に触れていた。  本来そのような姿勢であれば、寝室へと通じるドアに足先が当たってしかるべきはずなのだが、室内履きが脱げた素足に伝わってくるのは、いま指で触れている絨毯と同じ感触だった。  さらに雄弁な物証が、氏の目の前に横たわっていた。反対側の辺、つまり結界の対面から、三日間履き続けてすっかり見馴れたツイード生地のズボンをまとった二本の脚が飛び出していたのだ。  女は吟味するようにカマエル氏の上半身と下半身に視線を巡らせると、その両脚のほうへと歩み寄っていった。  混乱しながらも、カマエル氏は床を前へと這い進んだ。そんなことをすれば女との距離が縮まるだけだとわかっていたが、咄嗟にとった行動だった。  だが女のほうが早かった。  蛇のように女の腕が伸びたかと思うと、ふたたびあのぎりぎりと締めつける痛みが、今度は足首に伝わってきた。  絨毯に爪を立てるなか、氏は対面の境界からまず腰が、次いで背中からうなじと、自分の身体が少しずつあらわれてくるのを目にした。それから伸ばしていた両腕が忽然と消え、自分の頭が境界を通り抜けたことを知った。
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