一辺六フィートの幻影

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「まったく、また床で寝ているんですか?」  騒々しくドアが開く音とともに耳に届いたのは、聞き馴れたそんな声だった。目を開けたカマエル氏と怪物が同時に居間の出入口を見ると、結界の仄青い光に照らされたアンナが立っていた。  こっちに来てはいけない。  そう警告の声を発しようとしたカマエル氏だったが、肺を絞りあげられていてうまく言葉が出ない。いや、そもそも調べ上げたルールではあとからやってきたアンナは結界の中に入ることはできない。  そのため、いまは自分の身の安全を優先して然るべきなのだが、カマエル氏はそのことを念頭に置いていなかった。  この状況にまったく頓着しないアンナ。そんなメイドを気遣うカマエル氏。  この場において物事の優先順位をもっとも心得ていたのは怪物だけだった。  怪物がアンナに向けていた注意を戻すと、カマエル氏の顔にかぶりつこうとふたたび大きな口を開けてくる。しかし氏はアンナの存在に勇気を奮い起こされ、せめて最期の瞬間まで怪物を睨みつけてやろうと心に決めた。  視界の上下を鋭い牙が覆い、その奥の暗闇が目前に迫る。  だが突如として、それがカマエル氏から急激に遠ざかっていった。同時に身体にさらに負荷がかかり、次いで怪物の咆哮が轟いた。それも、それまでの獲物をいたぶるような嗜虐的なものではなく、はっきりと苦悶を伝えてくる叫びだった。  それから身体にのしかかっていた重みが消え去る。怪物がさらに大きくのけぞったことで、膝をついていた両脚のあいだにわずかな隙間ができたのだ。  カマエル氏はこの機を逃さず巨体の下から這い出した。そのあいだも怪物はもがきつづけ、頭を抱えて身を低くしていた。それから身体をわななかせ、横薙ぎに尻尾を振る。それが対面の境界に触れるのを見て、カマエル氏は咄嗟に身を伏せた。  直後に怪物がいるのとは反対側の境界から太い尾があらわれて頭上をかすめていくと、持ち主である怪物の胴体を鞭のように打ち据えた。  横倒しになった怪物だったが、その衝撃よりも最初に味わっていた苦しみのほうが余程堪えたらしく、七転八倒の様相を呈していた。  ただでさえ狭い結界の中、転げまわる怪物は境界に触れてはその反対側に消失した身体の部分を飛び出させ、戻ってはまた飛び出しを繰り返していた。  カマエル氏はそうして暴れ狂う怪物から身を守るべく、テーブルの下で身を低くした。  はじめのほうこそソファを叩き壊したり、テーブルの天板に爪を立てたりと派手に暴れまわっていた怪物だったが、徐々にその動きは鈍くなっていった。それとともに、ぬらついた鱗に覆われていた皮膚が徐々に身体から剥がれ落ちていく。体長も縮んでゆき、外見も段々と元の人間のものに近づいていった。  そうしてあらわれたのは艶やかな肌と髪を持つ美女の姿ではなく、朽木を思わせるかさついた肌と白髪をした、しわだらけの老婆だった。  あれだけ俊敏で豪快だった動きもなりをひそめ、何かをつかまえるというより救いを求めるように両手で宙を掻きながら、女はカマエル氏によぼよぼと近づいてきた。洞穴のように落ち窪んだ双眸に見据えられた氏は、相手から少しでも距離をとろうとあとずさった。  そうして疲労困憊した男と年老いた女との、どこか緊迫感に欠けた追いかけっこがテーブルの周囲でしばらく続いたあと、とうとう女のほうが絨毯の上に崩れ落ちた。  室内を満たしていた仄青い光が窓から差し込む朝日にとって代わり、結界もあらわれたときとは逆に、まるで雪が溶けていくかのように上部から散り散りになって消えていった。  力尽きたカマエル氏がその場にへたりこむ。女はなおも氏に近づこうと、蝸牛のような速度で絨毯の上を這い進んできた。  そのしわだらけの顔に何かがあてがわれると、さっと横に払われるなり女の頭部が消失した。それをやってのけたのは、南国のめずらしい葉脈で編まれた箒の頭であり、その柄を手にしていたのはほかならぬアンナだった。  メイドが絨毯の上を掃くたび、女の身体が砂のように消えていく。やがて節くれだった爪先までが掃き去られると、女の姿は完全に消えた。
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