一辺六フィートの幻影

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 女は絨毯の外へと一歩踏み出そうともした。  ところがその途端、今度はあらわれたときとは反対に女の身体の一部が消えてしまう。それはあたかも、光の屈折率によってガラス鉢の中の魚が見えなくなるのに似ていた。  まるで絨毯と床との境目が垂直に張った水面のように、女はそのまま透明の壁の向こうへと姿を消してしまった。かと思えば、ふたたび絨毯の上に躍り出てカマエル氏に嬉しい驚きを与えてくれるのだった。  絨毯の上を女が舞うこの奇妙な光景は、しかしカマエル氏を落胆させもした。というのも、女は絨毯の境目で消失と出現を繰り返しはするものの、絨毯そのものの外には出られないようなのだ。  あちら側とこちら側、その二つの概念が存在することを、カマエル氏は疎ましく感じた。  ふと窓の外を見ると、ロンドンの空が白みはじめていた。逸らした視線を絨毯に戻すと、すでに仄青い光も目に見えない壁も、そしてあの美しい女の姿も消えていた。  いまのは自分の精神が作り出したありもしない妄想か、それともひどく現実的な感覚を伴った夢だったのか。  だがカマエル氏の胸にたしかに存在したのは、あの女が消えてしまったことに対する悲しみだった。  ただそこには慰めもあった。床を濡らす飲みかけのブランデー。少なくともそれは、氏にあの女が実在することを信じさせるきっかけになってくれた。  そのまま陽がのぼりきるまでソファで眠りについたカマエル氏は、アンナによって叩き起こされた。 「まったくこんなところで眠って、風邪をひいても知りませんからね!」 「やあ、アンナ。おはよう」  ずっと座っていたせいだろう、起こした身が背中を中心にすっかり強張っている。 「ちゃんとベッドでお休みにならないと」 「そうだね、気をつけるよ」  一瞬、昨夜自分が見たものをアンナに話してしまおうかという考えが頭に浮かんだが、結局カマエル氏は口を噤んだ。その内容があまりにも馬鹿げていたからというのではなく、秘めてこそ美しさを保てる事柄のように思えたからだ。  そしてその秘密は、どこか熟れたような甘味を帯びていた。  あれはやはり、床に敷いた絨毯が見せた出来事だったのだろうか。いまその上にいるのはたおやかな美女ではなく、万夫不当という形容でさえ不釣り合いと思わせるような逞しいメイドだ。そんな彼女がテーブルの上を見てこう言った。 「あらいやだ、安物買いのなんとやらね。あそこの花屋に文句を言ってやらなきゃ」 「そこの店主なら、このあいだ手が後ろにまわっただろう。ほら、娼婦か何かを殺した罪で」  カマエル氏の言葉には反応を示さず、アンナは花瓶の中から束ねた百合をつかみ上げた。昨日、あれだけ透き通るようだった花弁は、まるでミイラのように茶色く渇いて枯れていた。
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