一辺六フィートの幻影

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 それから数日のあいだ、カマエル氏はソファの上で夜を過ごした。もともと足が遠のいていた紳士クラブにはとうとう行かなくなり、それどころか家自体から出ようとしなくなった。  外界との関わりを絶ったカマエル氏に対して、アンナは眉をひそめるのを隠そうともしなかったが、あとは普段どおりに部屋の掃除を続け、食事を居間に運んでくれた。そうしているうちに数日が経ったが、女は絨毯の結界の中に夜毎その姿をあらわした。  繰り返し目にしていたことで当初の驚きはなりをひそめていた。カマエル氏はそうして生まれた余裕で結界と、その中にいる女とを仔細に観察した。  そうして新たにわかったことは、氏をひどく落胆させた。透き通った壁で隔てられているだけにも関わらず、女はどうやらこちらの存在を認知していないようだったのだ。  たしかに女は朝を迎えるとともに霧のように消えてしまうが、夜が訪れればふたたびあらわれる。  しかしながらいくら姿が見えていようと、カマエル氏がその向こう側に足を踏み入れることはできない。それはあたかも地球の裏側の風景をおさめた写真のようなもので、見ることはできても行くことはできない場所だった。いや、八十日間で世界を一周できることがわかったいまの世の中では、結界の内側よりも地球の裏側にたどりつくほうが遥かに現実的だった。  いつしかカマエル氏は寝食を忘れて絨毯の観察に没頭し、頬杖をつきながらソファに腰かけては、様々な思索を巡らせた。そしてその関心はこのめずらしい物品そのものではなく、その内側にいる女に対して専ら注がれていた。  氏は、女に心を奪われていた。  それでもはじめのうちは、カマエル氏も身を焦がすような感情を抑えることができていた。それはあの結界が触れてはいけないものだと本能的に理解していたからであり、いざ触れてしまえば最後、自らの身に災いが降りかかるかもしれないということを予感していたからだった。  しかし誘惑は、徐々に氏の心の隙間に入り込んできた。それはあたかも、あの女が爪先から鼻先、そして全身と、結界の内側へ姿をあらわしていく様子に似ていた。  衝動を抑えられなくなるたび、カマエル氏は絨毯の周囲をうろついたり、恋に身をやつす少年が少女の家の窓に当てるように、摘みあげた一つのガラス玉を投げつけたりした。当然ガラス玉は結界に当たって跳ね返り、氏の爪先に転がってくるだけだった。  ついにソファから立ち上がったカマエル氏が結界に直接手を触れたのは、欲望に屈したからというより、接触以外の手段をすべて試してしまったからだった。  たとえば物を投げつけてみせたり、相手の視界に入るべく大仰な身振りをしたりといったことでなんらかの成果を得られたとしたら、そこまで思い切ったことはしなかっただろう。  だが何を試してみたところで、女がカマエル氏に気づく様子はなかった。だから氏はある夜、おもむろに結界へと近づいていったのだ。理性的な動機からではあったが、その足取りは意を決したものというより、夢遊病者のそれに近かった。おまけにこの数日で、カマエル氏はすっかりやつれていた。  全身が真綿そのものになってしまったような感覚のなか、心臓だけが早鐘のように金属的な鼓動を繰り返している。室内履きの片方が脱げ落ちたが、氏は振り返るどころか、結界に目を向けたまままばたきさえしなかった。  カマエル氏がこれほど結界に近づいたのもはじめてのことだった。近づくにつれて、腕の表面を羽根がなぞっていくような感触が伝わる。それはやがて麻の布のようにざらついたもの、それから溶けた鉛へと、その質感と重量を増していった。それは痛みを伴いはしなかったが、ただ全身にまとわりつき、吐き気を誘うような酩酊感と暗澹たる不安を与えるものだった。  まばたきを忘れた両目から涙がにじみ、根の合わない歯がかちかちと音を鳴らすなか、カマエル氏はとうとう結界に触れた。  爪の先、指の腹、それから手の平へ……面した部分が増えていく数秒にも満たない時間を、カマエル氏は永遠のように感じていた。いや、氏にそう思わせたのは、この結界に触れるに至る今日までの日々だったのかもしれない。  直後、稲妻に撃たれたような衝撃が全身を駆け巡り、カマエル氏はその場で飛び上がった。そのあいだも右手が結界から離れることはなく、むしろ磁石のような斥力でもってより強力に吸いついてきた。  絨毯を中心に放たれていた光がさらに強さを増し、全身を包んでいく。だが実際は、カマエル氏自身があの仄青い光を放っていた。  そして氏は目撃した。それまで日々同じ所作を繰り返すだけだった女が動きを止め、こちらをまっすぐ見つめてきたことに。  その瞳は、カマエル氏がこれまで見たことがないほどの深さと黒さをたたえていた。その掘り出したばかりの石炭のような瞳と、カマエル氏のハシバミ色の瞳とが合わさったとき、決定的な何かが音をたてた。それはあたかもパズルの最後のピースがはまりこんだときのようであり、時計の針が正午をさした瞬間のようでもあった。  直後にカマエル氏は両目を見開き、闇の中へと落ちていくかのように急速に意識を失っていった。
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