一辺六フィートの幻影

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 その日の晩も、カマエル氏はソファに腰かけていた。ただし今回それは、絨毯の上に据えられていた。  アンナの言葉によってひらめいた発想は、至ってシンプルなものだった。絨毯の結界と、その内側にいる女とを見た初めての夜。あのときそこには女以外のものもいくつかあった。  一つはテーブル、それから花瓶、そして白百合だ。  それらは発生したあとも、結界の外へとはじき出されることなく内側にとどまり続けていた。これがテーブルと花瓶の二つだけだったら、カマエル氏にこれだけの覚悟と興奮を与えることはなかっただろう。  だが白百合は別、あれはまごうことなき生命体だ。つまりこれは、あの結界が物質以外のものも受け入れてくれる証左に他ならないのではないか。  当然そこには懸念もあった。  もしも根の切り離された白百合が死んでいるという扱いであれば、結界はやはり物質しか受け入れないということになる。いっぽうで仮に生命も受け入れてくれるのだとしても、花と人間、たとえばそれらの魂の総量や種類といった違いで拒まれるようなことがあったとしたら、やはり氏が身をもって最後の実証を行わなくてはならない。  それでもカマエル氏は緊張の面持ちでありながらも、絨毯の上に置いたソファに腰かけたままそのときを待った。いまの氏を突き動かしていたのは論理と計算に裏打ちされた推測ではなく、無謀な行動で女への愛を証明しようとする狂気じみた情熱だった。  どれだけの時間、そうしてソファに座っていただろう。夜が更けていくにつれ、今宵も絨毯が少しずつ仄青い光を帯びはじめた。  連日の睡眠不足によって舟を漕いでいたカマエル氏は起き上がると、ソファの上で姿勢を正した。  と、そこで自分の身を包んでいたシャツが、ここ数日のあいだ着たきりであることを思い出す。  咄嗟に隣の寝室へと通じるドアを見た。  いまから衣装棚をあさって、おろしたてのシャツに着替える時間は残されているだろうか。だがカマエル氏は立ち上がりたい衝動を、ソファの肘掛けをつかみながらじっと堪えた。  女に対面する前に身支度を整えたいという紳士としての嗜みよりも、恋焦がれている相手にいち早く会いたいという男の欲求のほうがより強く働いたのだ。  やがて絨毯の発光が極限まで高まると、周囲を結界が覆いはじめた。  外から見たときはわからなかったが、結界はどうやら絨毯の外縁で壁を築いていくように形成されていくようだった。  もしもこれが、逆さまにした水槽がせり上がっていくような動きをしていたら、カマエル氏は見えない天井によって上へと持ち上げられていたことだろう。そうした心配が取り越し苦労で、物質も生命も関係なく結界の内側へと覆われていくさまを見て、氏は安堵を感じるとともに成功を確信した。  ソファから立ち上がったカマエル氏は、結界を間近で眺めた。水中にいるときのようにぼやけてはいたものの、内側からも外を透かして見ることはできた。  こちらから結界に触れたら、昨晩のようなあの感覚をまた味わうことになるのだろうか。そう考えたカマエル氏が結界に伸ばした手を止めたのは、横合いからとある気配を感じたからだった。  同時にそれは、氏にとって待ちに待った瞬間でもあった。
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