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「で、どうするんだ。あいつとのこと?」
「やめておく。今日でおしまいにするよ。聞いてくれてありがとね。でも、だって……私なんかじゃとても敵わないような子が相手なんだもん」
「勝ち負けじゃないと思うけどな、こういうのって」
「私もそう思ってたよ。でも、それでも『負けた!』って思っちゃったんだもん」
「じゃあ……だったら、そうなのかもな」大崎君はしきりに頷いたあと、制服のポケットに手を突っ込んだ。「そういえばこれ、返すよ」
大崎君が差し出したのは、冬休みに私が買った文庫本だった。幼馴染と仲良くする彼の姿を見たせいで、いままでその存在を忘れていた。
「これ、どうして?」
「あの日、ベンチに置いてったろ」
「そうじゃなくて、どうしていま?」
「最初はすぐ渡そうと思ったんだけどさ、なかなかタイミングつかめなくて。で、俺も読書でもしてみようかって言った手前、せっかくだし読んでみようと思って」
「呆れた」
「勝手に読んだのは謝るって。部活の合間に少しずつしか読めなくって、返すのもすっかり遅れちまったけど。それでさ、これって囚人の一人が可愛がってたネズミが殺されて終わりなの?」
「それ、上巻だよ。下巻に続くから……って、私まだ読んでないのになんでネタバレするの?」
「え? 言っちゃまずかったか?」
きょとんとする大崎君の顔を見て、思わず笑いを誘われてしまう。まさか読書経験の差がここまで価値観の違いを生むだなんて、思ってもみなかった。
私は笑った。今日までのわだかまりを吹き飛ばすように。
嫌な自分も、失恋の痛みも、みんな……みんな。
心の蓋が開いて、淀んでいた感情が流れ出ていくのを感じる。どろどろだったそれは爽やかな空気に触れた瞬間、季節はずれの粉雪のように散っていった。
「私も始めてみようかな、新しいこと」目尻の涙を拭いながら私は言った。
「いいじゃん、何するの?」
「運動、とか。でも、何すればいいかな?」
「手っ取り早いのはジョギングかな。ジャージとシューズがあればできるし。いいコース教えるよ。その代わりさ、今度下巻も貸してくんないかな?」
大崎君が本の表紙を掲げる。その真っ直ぐな笑顔はきっと遠い昔、まだ読書を純粋に楽しめていたときの私が浮かべていたものとそっくりなんだろう。
もう戻らない日々。そう思って心がずきりと痛んだ。でも、それで最後だった。
あの日、放課後の図書室で彼の背中を押したことを、私は後悔しているだろうか?
もちろん、後悔してるに決まってる。
それでも、そう決断できた自分を誇らしく思っているし、それが正しいことだったと信じることもできた。
そんな自分は、私に新しい恋をはじめるきっかけではなく、失恋から立ち直るほんの少しの勇気を与えてくれた。
「そういえば、大崎君って下の名前なんていうんだっけ?」
「ひでえな! これでも長い付き合いだろ」大崎君は咳払いを一つすると、「信人だよ」
「そうだったね。あ、私は森戸藍っていいます」
「知ってるって」
私はもう一度短く笑い、それからこう続けた。
「いいよ。ジョギングに付き合ってくれる代わりに下巻も貸してあげる。今度持ってくるね」
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