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訣別-けつべつ-☆10
いつもの朝じゃない…
雨の音がする。
木々が弾く雨音は、特に優しく響いてくる。
こんな穏やかな朝が好きだ。
こんな日に、あの人は戻って行く。
自分のいるべき世界に。
そこには愛する人がいて、
私の知らないあの人が生きている。
期待などしていないと自分を騙していた。
ほんとは、諦めきれてなんかいなかった。
会いたいと思っていた。
触れたいと思っていた。
そんな自分に気がついたら、
もっと辛く苦しい朝しか来ない。
帰らないでと、マトリは願わずにはいられなかった。
この声は、誰にも届かないから。
この涙は誰にも見せられないから。
今だけは、ジェルとして願うことを許してください…。
#1
治療中のケンに代わって"帝都"からの書類を処理していた時、マトリの目に陛下からの直接許可申請が通ったという案内文が引っかかった。
それは処理しなければならない案件ではないので、すぐに処理済みの山に入れれば良いだけだったのだが。
チラリと見えた項目に、『妻との休暇願い』の1行が通り過ぎた。
その書面は、それ以上見る事なくすぐきちんと整理した山に送り込ませた。
個人的な内容に、侵入してはならない。
気持ちを切り替えて、作業を続けたが。
その文字を、頭の中から切り取ることができなかった。
今の陛下は、ケンの実父である。
"帝都システム"の中では、"陛下"という役職は世襲ではない。
だが、確率的に近しい遺伝子を持つ者にその特性が強く現れ易いのも事実なので、今のところケンが一番継承する可能性が高いと考えられていた。
"殿下"という次世代の"陛下"候補はケン以外にもいるが、現在の"陛下"の代理を務められるのは、まだケンのみとなっていた。
その為、"帝都"を離れる時、彼だけは"陛下"の許可が必要なのだ。
ケンの居場所や、外出の理由、同席者などを"陛下"だけはいつも知っておかなければ有事の際に困るのである。
今回の申請は特に"陛下"とケンだけしか知らない、極めてプライベートなやり取りの書面だとピンときた。
そして、マトリはケンが妻帯者である事を知ってしまったのだった。
#2
もうすっかり出立の準備は整っていた。
アイン博士とは離れ難かったが、どうせまた来たくなるさと言って、さっさとお散歩に行ってしまった。
そうは言われたものの実際には、ケン自身はもう来ることは無いと密かに思っていた。
今回来れたのは、"陛下"に偽って許可をもらい、勝手に出てきたからでもある。
これから益々自分の役割が重くなれば、"帝都システム"に属する世界を中心に行動しなければならなくなる。
緻密なこのシステムを安定して動かしていくのは、並大抵の力では太刀打ちできない。
その為の組織をまとめる能力を培い、仲間を育成しなければならない。
なのにこの数十年以上に渡って、ケンは"あの日"の呪いから自分を解き放つ事ができなかった。
結婚までして克服しようとしたのに…。
"謎の医療班"と聞いた時、自分の心は無意識のうちに亡霊を探そうとしていたのではないか。
今、はたしてそこから自由になれたかというとまだ自信はない。
それでも、地球に来る前よりも何かが変化しているのを感じていた。
『あるがままを受け入れる覚悟』
それだけはこの折れた腕のおかげで、得られたと信じられた。
だから、先に進まなければと決心したのだった。
#3
そろそろ出発時間だと言う直前、見送りに来たマナブとルイに戻って来いよと言い置いたところで、久しぶりにジャックが顔を出し、ケンに声をかけた。
「悪かったな…」
「いや、色々助かったよ。今後もっと"帝都"にも力を貸してくれたらありがたいんだけどね」
「それはごめんだ」
素っ気なく話す男だが、少し付き合うようになったらまっすぐな性格が垣間見えた。
いい仕事をする、誠実な仕事人だった。
今もわざわざ別れの挨拶に来てくれたのだろう。
後ろに隠れているマトリを連れて。
ケンはジャックの配慮に気づいて、自分からマトリに挨拶した。
「ありがとう、マトリ。腕を折ってくれて」
「????え?い、嫌味ですか⁉︎」
「まさか? ほんとに感謝してるんだ。ありがとう、カオっと、マトリから貰ったたこ焼きも美味かったよ。あっ、でもちゃんと謝罪してもらおうかなぁ。もう会うこともないだろうから」
そういうと、ちょっと手招きしてマトリを近くに呼んだ。
仕方がなくケンのそばに俯いたままそろそろと近づくと、彼はそっとマトリに耳打ちしてきた。
「僕の頭の中、覗いたでしょ?」
「⁉︎」
「守秘義務違反したら、その時は容赦しないよ」
ケンはふふふふと意地悪そうに笑ってから、顔を離すと。
「冗談だよ。ほんとに感謝してるんだ。君に会えて良かった」
そう言ってケンは笑って、コクピットに消えていった。
マトリは青くなったり、真っ赤になったりしながらたじたじと下を向いて固まってしまった。
本当は去ってゆく背中を見たかったけれど、涙を堪えながら顔をあげることができずにいた。
#4
結局謝れなかったと、マトリはあの後嘆き狂っていたけれど、マナブとルイはヨシヨシと頭を撫でてあげながら、思い出し笑いをまたしていた。
気を張っていたのだろう、それから三人でカンティーヌのテラスでゆっくり食事をしていたら、マトリはいつの間にか寝息をたてていた。
その横で、マナブとルイはどうしようもないなぁという顔をしつつも、優しくブランケットをかけてやったりしていた。
「結局ジェルがケンを助けたんだな…」
「僕たちだってそうじゃない?結局ここに居るんだよね。こうして三人で…。『腐れ縁』ってやつ?」
三人になると自然と男言葉に戻って、ルイは相槌を入れた。
「ルイ?」
マナブが伊達眼鏡の奥から、ちょっと改まった眼差しで真剣に見つめてくる。
「…何?」
「お前がいてくれて良かったよ」
「な、何恥ずいこといってくれてんの⁉︎」
さすがのルイもちょっと照れて、目の前の苺を一粒口に放り込んだ。
そういえば、ケンが目覚めた時の朝食メニュー、用意したのはジェルだったなぁと、ルイは思い出していた。
「敵わないわねえ…」
そう呟くルイの言葉は、阿吽の呼吸でマナブにはすぐ理解できた。
「そういやぁ、俺おまえんち行った事ないぞ?」
「スイスの?あれ?そうだったかしら?」
あそこは、ジェルの秘密基地だからマナブには教えてあげないのだ。
意地悪だけど、親友だから許して貰えるとルイは鷹を括っている。
「マナブは友達いないものね。私しか」
「かもな…」
そう言いながらさすがに照れ臭かったのか、寝こけるジェルにデコピンを喰らわせている。
「おや、今日はやけに素直じゃないの。ふふふ」
「ケンの素直さに当てられたかな?」
「あれは天然だからねぇ。敵わない、敵わない」
観念したように、二人は星々が煌めく空を仰ぐ。
「しっかしデコピンされても起きないなんて、相変わらずな女ね」
ルイは、空になっていたマナブのグラスにシャンパンを注ぎながら、
「じゃあ、乾杯でもしますか?」
「乾杯?」
「恋敵が去ったお祝いよ!」
「ハハハハハ…。言うかそれ」
「言うでしょ?今日くらい」
ルイがお茶目に、ウィンクしてグラスをケンに差し出した。
カチンとシャンパングラスを合わせた二人は、無防備に深く眠るもう一人の友人を、労わるように見遣った。
そしてやっぱり呆れた顔を見合わせると、ちょっと笑いながら、また思い出話しなんかを飽きることなく話すのだった。
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