残夢-ざんむ-☆5

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残夢-ざんむ-☆5

やってしまった やってしまった…やってしまった…。 ううううううううう。 ケンの治療設定をきっちり終えると治療ブースをしっかりとロックしたのを確認してから、やっとその扉を背にマトリは泣きながら座り込んでしまった。 あんな顔色のケンを見たのは、初めてだった。 あんな表情のケンを、自分は知らない。 遥か昔、その体によく触れていたあの頃。 忘れてしまったと、思っていたのに…。 一緒触れられそうになったあの時、彼は確かに昔の自分の名前を口にした。 無意識に口から出たのだと思う。 あの日と同じ、記憶が交差したのが分かって。 瞬間汚い自分に触ってはダメだ!と思ってしまった。 だからといってだ、突き飛ばして良い筈がない。 結果怪我をさせて、頭が真っ白になって、治療しなきゃ今すぐ!! そう思った時には、腕を掴んで走っていた。 焦って焦って焦った挙句、線状骨折にとどめを指して、複雑骨折にしてしまったのは誰だ?? 私だ…! 終わってるわ、私。 うなだれたって、もう遅い。 254db486-b36c-4801-9a5f-2218209260f2           #1 事の顛末をマトリから聞いた友人のマナブとルイは、大爆笑していた。 「久方ぶりに笑ったよ」 「昔のジェルは、ぜーったいそんな事しないもの。マトリ変態だわね。ふふふ…おもしろ〜い!」 普段ポーカーフェイスのマナブまでが爆笑しているのを見ていたら、自分の不始末とは言え超腹が立ってきた。 「昔の名前で呼ぶんじゃねー!タコ!」 「あら、お下品ねぇ」 最近オネエ言葉にハマっているルイが、あら怖い怖いと肩を竦めながら、また笑う。 ふたりとは"帝都"時代からの古い付き合いである。 もちろん、『ジェル』で無くなったあの事故もリアルに知っている。 あの事故をきっかけに、ふたりはその後帝都を離れて地方宇宙のいわゆる高級官僚として、さまざまな地域を転々とする仕事に就いていた。 あの頃一緒に仕事をしていたケン達とも、かなりの期間会っていないようだった。 誰もがあの事故で、変わってしまったのかもしれない。 そんなふたりとは、ジャック達に拾われてマトリとなった後しばらくして、ひょんな事から再会してしまった。 なので、ふたりともマトリの廃人時代の事は知らないのだが、"帝都"に戻れない事を察してか、深く問うでもないまま、いつの間にか足繁くファンタジアを訪れるようになっていた。 そうして、彼らもケン達に接する事なく日々が過ぎていたのだった。 #2 「さてと、どうしたものか」 「どうしたもこうしたも…あたし達がここに居るって知ったら、おかんむりどころじゃ済まないわねぇ。きっと」 マトリと別れて、ふたりは頼まれた案件を済ますべく朝の定例会議へと足を運ぶ途中であった。 「まあ、なるようになるでしょ。マナブなら大丈夫よ」 「何またいい加減な事を言って…逃げるなよ、ルイ」 ほほほほほ〜と、変なキャラのままで会議にどうやら出るつもりらしいルイに、マナブは呆れ顔で従った。 会議室には、カンカンに激怒しているフェードと、いつものアイン博士がいたが、他のメンバーは不在となっていた。 調査隊員達に、心配させない配慮だろう。 「今すぐアポロニアン殿下を返しなさ〜い!!」 「あらぁ〜だめよぉ。拉致監禁中なのぉ」 「何ですってぇぇぇ!!!!!!」 涙ながらも本気で殴りかかろうとするフェードの鋭い拳を止めながら、柔らかな笑みとともに、マナブが間に入った。 「ルイ、火に油を注ぐんじゃない!フェード管理官、ケンは大丈夫です。3日後の朝5時に目覚めるように治療を進めているそうですから、その時にお迎えに行ってあげてください」 「どういう事なんですか⁉︎ いったいなにが…」 「とりあえず、調査隊の目的である"謎の医療班"に入り込めたわけですから、そこはケンに任せたらいいでしょう。その間に、私達がやらなければならない事があるので、お手伝い願えませんか?」 そうマナブが穏やかに切り出して、頭に血が昇るフェードを押さえ込むと、すぐマトリからの依頼の処理が開始される事となった。 そしてそんなやり取りを見てとったアイン博士が、したり顔でいるのには、三人とも気が付かなかった。           #3 マナブとルイに依頼をした後、すぐにマトリはケンの眠る自分専用の治療ラボに戻ってロックをかけた。 誰も入ってこれない、二人だけの静寂が訪れた。 ケンの検査データは予測していた以上に、良くないものだった。 もちろん命に関わる病とまでは行かなくても、遺伝子レベルでの消耗が激しい。 DNAの修復速度が格段に遅くなっているので、疲労が蓄積しやすい状態だ。 奴はどれほど休みなく働いているのだろう。 おそらく数十年単位以上の影響であろうと推察された。 (相変わらず、自分の事には疎いなぁ。そういうところはアホだから、疲れ知らずなんて思ってるんだろ) しかし、『彼らしくない』と遺伝子解析を進めながら漠然とマトリは感じていた。 本人の許可を得ずに、詳しく頭の中を解析する訳にはいかないので、ざっくりと疲労箇所を修正しつつも違和感がある。 脳の解析技術者とは、いわば職人芸のような感性を持ち合わせた者でなければ出来ない仕事だった。 どんなに機械で分析しても、最後の最後で個体特性を特定し見い出せるのは、この個人の特殊で熟達した才能を持ってしか成し遂げられない。 どんなに精巧にコピーしても、本物の味は出ない。 分かるものには、本物とは違って見える。 こればかりはまだ、捉え所のない不思議な現象である。 マトリはまる3日を彼の治療期間として設定した。 肉体だけでなく精神的な回復プログラムも併せて。 このレベルの内容をこの短期間で組立てられる彼女の能力の高さが、この医療班を一躍有名にしてしまった原因である。 治療シェルターの中の彼の身体は、無駄なく均整が取れて美術品のように美しかった。 なればこそ痛々しく曲がり折れている左腕も、完璧に綺麗に修復しなければ…。 今のマトリが彼にできる事は少ない。 ただゆっくりと休ませてあげたいと思った。 そしてできる事ならば、全ての悪夢は忘れさせてあげたかった。 願わくば、ケンの中の自分の記憶を全て消してしまいたかった。           #4 覚醒予定時間の少し前に、マトリはケンの入った透明シェルターにブラインドシールドを発生させてから、彼の自室へそれをそっと運び出した。 ケンの部屋のロックを外す為に、いつもは身体に付けている彼個人のブレードを取ろうとしたその時、自分の右手が部屋のロックプレートに何気なく触れてしまった。 と、同時に彼の部屋のロックが外れ、入り口が開かれた。 「なんで⁉︎」 彼が許可した人間しか、ロック解除は決してされないはず。 まさか…。 いやいや、今のマトリをケンが知るはずもない。 しばらく動きが止まってしまったが、ふと我に返る。急がなくてはならない。 無駄な事を考えても始まらない。 ケンの部屋に入り、シェルターからゆっくりと治療液を除去しつつ、彼の身体を温め乾かす手順に移った。 その後、周囲の重力を調整しながらゆっくりとベッドに横たわらせた。 「完璧だな」 自分の仕事を自画自賛しながら、マトリは裸で休むいつもの彼らしく寝具を整えて、そのさらりとした美しい髪も流すように耳にそっとかけてあげた。 ふとマトリは躊躇いながらも、地球でのプラスチックフォームを解除して、本来の『ジェル』の姿に戻った。 金銀糸のような不思議な煌めきを放つケンの髪に、自分の長いエメラルドグリーンの髪がさらりと落ちた。 自分の髪をかき上げながら、ほんの少しだけ自分の頬を彼の頬に寄せる。 (懐かしいあの人の香り…) とっさに彼の頭を柔らかく抱きしめていた。 回した腕や頬に懐かしい匂いと体温を感じたら、自然と涙が溢れ出た。 どれほど彼に逢いたかったかを、痛切に感じた。 しかし今の穢れた自分が、彼の唇に触れる事は許されない。 そっと回した腕を離しながら、失ったものの大きさに胸が潰されそうになる。 ほんのわずかな時間で体を離すと、あとはもう一瞥する事もなく彼の部屋を出る。 失った時間はもう戻らない、顔を上げてマトリはマトリに戻っていった。
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