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幻月-げんげつ-☆6
ああ…懐かしい香りだ
ダフネの香木が広がる丘は、小さな頃から俺のお気に入りの場所だった。
低木のダフネの白い花は、ひとつひとつは小さな十字架の形をしているが、それが手鞠のように塊となってそれぞれの枝先に揺れている。
春にその花が一斉に咲き誇る時の、あの香りは忘れ難い。
三大香木のひとつとして、色々な惑星でも育てられているが、あの丘の風景と香りは幼い頃の記憶をいつも蘇えらせる。
ジェルには両親がなく、脳学の権威であった祖母と田舎の家で生活をしていたという。
その祖母と暮らす玄関先に、このダフネが植えてあった。
『この香りはね、祖母の優しくて温かい手を思い出させてくれるのよ』
その丘にふたりで行った時の、思い出に浸る寂しそうなジェルの横顔が見える。
#1
(俺は夢を見てるんだな)
ケンは夢の世界で、夢だと認識できていた。
優れた治療者の治療を受けている時は、幸せな夢が見られるというから、あの女の腕は確かなのだろう。
そんな事もぼんやりと思える、不思議な夢の世界。
ダフネの花の香りが、ケンの心と身体を緩やかに溶かしてゆく。
走馬灯のように、懐かしい風景が現れては消える。
どの記憶も、暖かい光の中や凛とした空気をともなって、彼の五感を刺激した。
特にロバートやユリ、そしてジェル達との記憶はあまりにもリアルで、そこだけは現実じゃないかと疑ってしまう。
けれど、これは夢だと夢の中で分かる。
その効果なのだろうか?
ただ幸せな感情だけが温かく体に染み込んでいって、いつの間にか心は遥かに遠くから懐かしむように眺める事が出来るようになっていた。
#2
ケンが目覚めると、東の窓から明け方のゆらりと白い下弦の月が現れた。
地球の衛星は月ひとつだが、いわゆる"帝都"と称される惑星は、3つの衛星を持っている。
月の両脇に、二つの月が見えるような感じだ。
ファンタジアは海底深く存在しているのだが、上空の天体状況をリアルに再現し環境設定を行っている。
その専門家が集う環境省のような組織が、"帝都"にもある。
彼らによって、時間感覚や体調への影響が最小限になるように配慮されている。
ファンタジアでもそうした専門家がいるのだろう。
もうすぐ朝焼けが広がろうとしている気配を感じて、ケンはゆっくりと裸の体を起こした。
いつの間にか、自室に戻っていた。
何事も無かったかのように、眠って、目覚めた。
不思議なほど違和感が無かった。
治療シェルターの記憶は、はっきりとしている。
痛めたはずの左腕を摩ってみたが、傷ひとつなく治されていた。
(身体が軽いな…)
のぼる太陽の光の中、ケンは一点の曇りもない清々しい朝を迎えていた。
#3
起きて間もなく、フェードから朝食の誘いがきた。
今日は定例の朝会議が昼に変更となったという。
珍しいフェードの誘いを受けて、湖の見えるテラス席で朝食を供にする事となった。
支度を手早く済ませて、東のエリアにある眺めのよいそのカンティーヌに向かうと、すでにフェードが席をとって座っていた。
彼女がホッとした表情を浮かべて、こちらに手を振って招くままに、空いている彼女の右隣りに座る。
目の前のテーブルには、彼の好みのメニューが過不足なく並んでいた。
「どうしたの?これ」
「栄養を摂っていただくように、指導されたんです」
フェードがはにかみながら、ポットを取りケンのカップに珈琲を注ぐ、いい香りが漂った。
「お好きなブレンドをわざわざ用意してくださったそうです」
「誰が?」
「マナブ様とルイ様です」
「え?どういう事?あいつらここにいるの??」
「まあ、それはおいおい。先ずは温かいうちにいただきましょう!!!」
さあさあとばかりに、フェードがもふもふと美味しそうに食べ始めたのと、ケンも空腹を強く感じていたのでとりあえず食べる事に専念することにした。
#4
色取りどりのベリーとハーブをふんだんに使った料理は、ケンとジェルのお気に入りの朝食だった。
(よくまあ覚えていたものだ…。あいつら)
自分すら忘れていたが、ダフネの丘近くにある別荘でよくジェルと作って食べていた事を思い出していた。
彼女は凝った料理よりも、新鮮な食材を活かしたシンプルなメニューを好んだ。
優しい、穏やかな気性のジェルは、のんびりとした会話を仲間と楽しみながらも、いつの間にか仕事を終えているようなリズムで生きていた。
ちょっと負けず嫌いなところはあったけれど、争い事を嫌い、ふたりでいる時間はいつもゆったりと流れて心地よいものだった。
今日と同じように、左利きのケンが右に座り、彼女はフェードのように左に座るのが定位置で…。
ふと視線を向けたその先に、珍しく朝練の髪をアップにしたフェードのうなじが見えた。
ジェルも無造作にエメラルドグリーンの髪をひとつに結えていて、その綺麗な白いうなじに思わず口づけしたものだった…。
と想像したところで、ケンは馬鹿なことを…と顔を赤らめた。
「ど、どうされました?私何か…変ですか?」
自分を見つめて頬を染めたケンの表情に気づいたフェードが、慌てて自分の姿を気にして問いかけた。
焦ったケンも、誤魔化しつつ、
「いや…うまそうに食うなと思って」
「え〜⁉︎ひと汗かいたらお腹へっちゃって。すみません、はしたなくて…」
「そういう意味じゃないんだ。美味そうに食う奴と一緒に食事ができるのは、幸せな事だよ」
「あ、ありがとうございます……!!」
フェードが知る上司の彼は、穏やかで気さくな振る舞いを絶えず心がけていたが、どこか人を寄せ付けない壁をいつも感じさせた。
だが、今日はなんだろう…らしくないというか。
こんな人だったのかと、改めて目を見張ってしまう。
(ご飯は美味しいし、気持ちいい場所だし、なんだか幸せだなぁ…)
フェードは益々アポロニアンへの信頼を厚くするのだった。
目の前に広がる湖は穏やかで、湖畔の周囲は桜と思しき花が満開で、淡いピンクで湖に縁取りを与えているのも美しかった。
花びらは風に舞い幻想的な景色をみせながら、運び去られてゆく。
運ばれていった先の遠い山々には、まだ雪のかかる頂きが朝日に輝いていた。
そんな風景を見ながら、誰かとゆっくり朝食を味わうなんてどのくらいぶりなんだろう?
ケンは心からその時間を楽しみながら、初めて自分の腕を折った馬鹿女にほんの少しだけ感謝の念を持てたのだった。
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