第一章 闇塾経営者・・・二〇三五年六月【事件のあと】

2/7
前へ
/30ページ
次へ
(一)事件  朝からこめかみがズキズキと痛む。一度、現れると長いときで数日間、この痛みから逃れることができない。偏頭痛に悩まされるようになったのは小学校三年生の頃からだ。今でも初めての日のことをありありと思い出すことができる。春が来て、桜の季節が終わり、少しずつ暖かくなり始めていた時期だった。もうすぐ大好きな夏がやって来ると思っていたのに。 忌々しく思いつつも、近頃では、不意にやって来るこの招かれざる客を、人生の同伴者として受け入れ始めてもいる。  日曜の午前十時。  いつもなら遅めの朝食をゆっくりと採りながら新聞を読んでいる時間だ。自宅リビングにあるテーブルの上に投げ出された読日新聞の朝刊。本来ならくつろぎの時間とともにあるはずのものから強烈な妖気が立ち上っているように感じる。  テーブルの上のスマートフォンが震えた。 「もしもし」 〈城田さん、私です〉崎本美咲からだ。 〈ニュース見ましたか?〉 「ああ、見た」 〈今日、出社したほうがいいですか?〉と美咲。 「頼む。いろいろお願いしたいことがある」  俺もできるだけ早く行くから、と付け加えた。 〈困ったことになりましたね〉  俺の気持ちを代弁するような口調だった。 「そうだな」  しばらくの間をおいて、「覚悟したほうがいいかもしれないな」と答えた。 〈……、じゃあ後で〉  通話の切れたスマートフォンをしばらく見詰める。何が起きているのかさっぱり分からない。テーブルの上の新聞に再び手を伸ばした。 (二〇三五年六月九日読日新聞朝刊) 『八日午後七時四〇分頃、東京都X市X本町の路上で、「通行人が刺されて、倒れている」と一一九番があった。X署の発表によると、二十代と思われる男によって、通行人三名が刺され、うち都内在住の朝倉正美さん(四五)、勝山修さん(四三)、都内の大学に通う今橋拓海(二一)さんの計三名が意識不明の重体で、近くの病院で治療を受けている。犯人と思われる男は、現場で取り押さえられ、X署に連行された。同署は、不特定多数の通行人を狙った通り魔事件として捜査を進める方針だ。』  JR吉祥寺駅で電車を降り、スクールに急ぐ。  城田ミュージックスクールは、X本町通り沿い、駅徒七分の場所にある。スクールに近づくにつれ、物々しい雰囲気が伝わってくる。普段は人と自動車の往来が途絶えることのない通りだが、事件が起きた場所の前後一ブロックが封鎖されている。 封鎖線の前には警察官が数人いた。 「すみません。そこに職場があるんですけど、入っていいですか?」  まだ微かにあどけなさの残る若い警官だった。彼は、どうぞと言いながら、封鎖線をつくる黄色いビニールのテープを持ち上げ、隙間をつくってくれた。身体を屈め、なかに入る。路上には警察の車両が数台。制服の警官や鑑識官と思われる男性が走っている。  城田ミュージックスクール―――  建物の前。袖看板を見上げる。看板の背景はどんよりとした曇り空だ。湿り気をたっぷりと帯びた重たそうな雲が空一面に垂れこめている。  スクールは、六階建ての小ぶりなオフィスビルの地下一階にある。客は皆、富裕層だ。ビル自体は築二十年超えおり、少々くたびれているが、内装には金をかけ、上級階級好みのシックで落ち着いた雰囲気が感じられるようにした。  階段を降りる。一歩、また一歩。段差を踏みしめるごとに、上級階級の子どもを陽の当たらない地下に引きずり降ろしているという事実に密かな快感を覚える。  ガラス張りのドアの向こうに明かりが見えた。美咲がすでに来ているようだ。先の見えない不安を感じながら、なかに入る。エントランスには丸テーブルと椅子二脚の組み合わせが三組。形式的には保護者のための待合スペースだが、ここで子どもを待つ親はほとんどいない。当然である。ここは闇塾なのだから。  ガタン、ガタン。  奥から聞こえてくる物音。倉庫だな。  事務スペースを抜け、教材や備品などを保管する倉庫へ急ぐ。 「おはようございます。楽器出しますよね?」アコースティクギターを抱えた美咲が尋ねる。 「頼むよ。机と椅子の片づけは手伝うから」  ジャケットを脱ぎ、早速作業に入った。  学校外教育が法律で禁じられたのは九年前の二〇二六年。法律制定のきっかけになったのは二〇一九年、当時の文科相の「身の丈発言」だった。政府は大学入試に関する改革を進めており、最大の目玉は英語検定試験など、会話のスキルなどを測ることができる業者テストを入試の合否判定資料として活用する案だった。当然のことだが、テストの受検には、費用がかかる。低収入の家庭の子どもに不利ではないかという意見が、計画当初から指摘されていたものの、政府はそうした意見を顧みることなく、改革への道を突き進んだ。 「受験生諸君は、身の丈にあわせて頑張ってほしい」  記者会見で放った文科相の一言は、貧富の格差によって受験生に有利、不利が生まれる状況を肯定する発言と取られた。その一言によって、政府への批判が噴出。世論は憤り、そして大学入試改革は頓挫した。その後も経済格差の拡大は止まらず、国民の不満、特に生活に困窮する人々の不満は次第に高まっていった。二〇二四年、親の経済力で享受できる教育の量と質に差が生じないようにという理念のもと、学校外教育禁止法の骨子がまとまった。二〇二六年、法律の施行により、学習塾、予備校、家庭教師派遣などを生業にしていた会社や個人は廃業や業態変更を余儀なくされた。そして、その陰でひっそりと生まれたのが闇塾だ。その多くはマンションの一室など目立たないように営業している。うちのように偽りの看板を堂々と掲げているところはほとんどない。違法行為なので見つかれば即検挙だ。  廃業を早めよう。  本当は、今年度の受験生を送り出したところで、塾を畳むつもりだった。この九年間で、会社員の生涯年収を遥かに上回る金を稼いだ。もう十分だ。廃業の後は、二、三年のんびりしながら、次の身の振り方を考えようと決めていた。  朝倉正美と勝山修、事件の被害者であるこの二人は、いずれもうちに通う子どもの保護者だ。二人がうちの関係者であることに警察が気づくのも時間の問題だろう。絶対にうちが闇塾であることを警察に気取られてはならない。授業で使っている学習机と椅子、可動式のホワイトボードはいつでも隠せるよう広い倉庫を備えてある。  美咲とともに机と椅子の片づけを終え、事務スペースに戻る。美咲は引き続き、カモフラージュ用の楽器を倉庫から運び出している。鍵つきのキャビネットから、顧客情報のファイルを取り出す。在籍生徒は三十八名。少ない人数だが、高額の月謝が取れるので充分な売上になる。 皮肉なものだ。 闇に潜った教育サービスを受けるのは、富裕層の子どもたちだ。親の経済力によって生まれる教育格差を解消するはずだった法律によって、さらに機会の格差が拡大している。  書類を次々とめくる。今どき紙で情報をストックするなど、時代遅れも甚だしいが、いざというとき廃棄するには紙の方が好都合だ。ファイルごと焼却炉に放り込めばいい。 目的の書類はすぐに見つかった。 ―――【生徒氏名】朝倉優樹菜【家族】(父)朝倉純一(母)朝倉正美(兄)朝倉重樹 浅倉正美はクレーマーだった。子どもの勉強がうまくいかないと、すぐに教え方が悪いといって怒鳴り込んでくる。感情の制御が効かないタイプだ。父親の純一は医者。杉並にある朝倉病院の二代目だ。兄はたしか都内有数の大学付属高校に通っていたはずだ。子ども二人も絶対に医者にしたいと思っている。優樹菜は現在、小学六年生。入会は二年前。当初の学力は至って普通。可もなく不可もなくといった状況だった。だがここのところの成績は低迷している。このままでは志望の学校には入れないだろう。 勉強は今一つだが、性格はすこぶる良い。 最近、シンガポールから帰国したばかりの女子が入会した。聞けば優樹菜と同じクラスだという。海外での生活が長く続いた彼女は、日本での生活に全く馴染めなかった。入会当初の彼女の表情に笑顔はなかった。母親は本来、奔放で明るい性格だと言う。そんな彼女が本来の明るさを取り戻したきっかけは優樹菜との交流だった。 「学校で浮いてしまいがちな娘に、優樹菜ちゃんが一緒に帰ろうって声をかけてくれたんです。娘が元気になっていったのはそれからです」  母親がそう語った。  勉強など出来なくてもその優しく朗らかな性格で、充分に幸せな人生を送れるのはでないかと思うが、もちろん商売上そんなことは口にはできない。最近、気持ちが荒んでいる様子が感じられ気になっていた。急激にやせ細ってもきていた。  何かに怯えるような眼。  浅倉優樹菜の表情は恐怖と絶望を表出していた。  あと一つ、母親について気づいたことがある。  彼女は幻覚を見ている―――  こんなことがあった。いつものように相談があると言って彼女はやって来た。 「昨日の授業で習った品詞分類、全然理解してないんですよ。国語の高木先生はちゃんと授業やってくれてるんですか!」 憤怒の形相でまくし立てた。 ところが、応接室に案内し、ドアを開けた瞬間、その表情が一変した。青ざめ、強張った表情。何もない部屋の隅を凝視し、部屋に入ろうとしない。あれは何ですか?と小さな声で言った。私が、何でしょうか、と応じるとはっとした表情を見せ、何事もなかったように装った。面談が始まっても動揺は続いているようだった。部屋の隅をちらちらと見ている。怯えているように見えた。何が見えていたのか定かではないが、この女の心の奥には深い闇が広がっているに違いないと察した。  さらに書類をめくる。あった。 ―――【生徒氏名】勝山和秀【家族】(父)勝山修(母)勝山妙子(姉)勝山麻衣子  本当は入会を断るつもりだった。勝山和秀は、入会の際に実施しているテストでほとんど点数がとれなかった。聞けば学習障害を抱えているという。学校の授業にもついていけない状況にあって、厳しい受験勉強に耐えられるわけがない。引き合いは多い。何も結果の出ないことが分かり切っている子どもを預かることはない。  入会の際、保護者には紹介状の提出を求めている。信頼できる人物からの一筆を入会の条件にしているのだ。闇塾の経営が露見しないよう受け入れる家庭は選別したいのだ。父親は、不合格の連絡に対し、紹介者である議会議員を通じ、圧力をかけてきた。国会議員相手に喧嘩はできないと諦めた。 入会を断りたかった理由はもう一つ。  入会時には必ず親の職業を聞き取るようにしている。社会的なステイタスが高い職業であればあるほど、こちらにとっては好都合なのだ。高額な月謝を取りっぱぐれる心配がない。それに加え、闇営業が露見する可能性が低減する。地位を失うことを恐れ、闇塾に子どもを通わせていることを秘密にするからだ。我々と保護者たちは言わば一蓮托生だ。大半の親は言う。詳しいことはちょっと、と。違法行為に加担するわけだから当然の反応だ。保護者様のご職業の登録は入会の必須事項です、と静かに俺は言う。死んだ勝山修は、大手商社の名前を口にした。ここで一定数の親は嘘をつく。彼もそうだった。入会希望者に対しては興信所を使って、身元調査を行うことにしている。彼は何と警察官僚だった。警察庁勤務。しかもキャリアだ。これまで多くの家庭を受け入れてきたが、警察関係者は初めてだった。  そしてこの子も―――  共通点は怯える眼。  朝倉優樹菜も勝山和秀も、同じ眼をした子どもだった。  資料の束を静かに閉じる。この共通点に何らかの秘密が隠されているのか。そして、もう一人の被害者、今橋拓海。彼は当スクールの理科の授業を担当する学生講師だ。  一体何が起きているのだろうか。得体のしれないものが纏わりつくように感じ、身震いがした。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加