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(二)母
(二〇三五年六月一〇日読日新聞朝刊)
『警察は六月八日、東京都X市で発生した通り魔事件の容疑者を同市に住む無職、相神圭吾(二一)と発表した。同容疑者は、午後七時四〇分頃、X市X本町の路上で、通行人三名を次々に刺し、駆けつけた警察官に取り押さえられた。刺された三名はともに、意識不明の重体となっている。相神容疑者は取り調べに対し、犯行は認めたものの動機については黙秘を続けている。』
国道一三四号線を南へ。津久井浜海水浴場を超えた。もうすぐ三浦海岸だ。
六月にしては気温が低く、少し肌寒い。それでも愛車の窓を全開にし、潮の香りを感じながら先を急ぐ。愛車は三年前に購入したものだ。電気自動車なので、走行音はほとんどなく、乗り心地がよい。自動運転モードをあえて解除し、ハンドルを握る。
目的地は、三浦半島の南端になる有料の老人福祉施設ベストケア三浦。相模灘を望むその場所に母親がいる。母がそこに入所したのが三年前。そう、ちょうど車を買ったころだ。以来、月に一回施設に足を運んでいる。
「こんな立派なところじゃなくてもよかったんだよ。一体いくらかかってんだい?」
「金のことなんか気にするなよ」
入所してすぐは会うたびにそんなやり取りを繰り返した。ベストケア三浦は、富裕層向けの施設だ。建物は豪奢で、食事もうまい。その名の通り、入所者へのケアも行き届いている。ただ母は金持ちに囲まれて、自分を不釣り合いな存在と感じたようだった。
「こんな気取ったところにはいられないよ」
吐き出すように言ったときの苦々しい顔を思い出す。最近になって、ようやく憎まれ口を叩かなくなった。
本当は昨日の予定だったが、事件のせいで一日遅れの訪問となった。
愛車を駐車場に滑り込ませ、施設のなかに急ぐ。広いエントランスの中央には、いつも豪華な装花が施され、来所者にこの場所の格式高さを誇示している。エントランスはまるで五つ星ホテルのようだ。受付で来意を伝える。
「相神芙美子の息子ですが、母は部屋ですか?」
小学生の頃、父と離婚した母は名前を旧姓に戻した。俺の苗字も相神にしたかったようだが、拒んだ。名前が変わるなんて、それまでの自分の人生が否定されたようで我慢がならなかった。引き続き、父の戸籍に残り、城田尊として生きていくことになった。しかし、その父も離婚後すぐに亡くなってしまう。それでも俺は城田の名前を棄てなかった。
「お母様でしたら、裏庭で海を眺めていらっしゃいますよ」と受付の女性は答えた。
お礼を言い、建物の中央通路を奥へと進む。突き当りに裏庭に通じるガラス扉がある。重たい扉を開けて外に出る。潮の香りがする。手垢にまみれていないあるがままの自然がそこにあった。
車椅子に座った母の背中が見える。傍らには女性職員が寄り添うように立っていた。
「母さん」
こちらに気づいた職員が笑顔で会釈をする。初めて見る顔だ。
「あら尊、来てたの」と母が言う。
「元気か?」
「元気だよ。今日は忙しいんだ。面接があってね。久美ちゃん、支度できてる?」
女性職員に向かって、そう尋ねる。彼女はちょっと困った表情で応じる。
「はいはい、できてますよ」
母を残して、女性職員と少し離れた場所に移動する。彼女は、楠木ですと自己紹介した。この春、福祉系の大学を卒業し、ベストケア三浦を運営する株式会社に入社。研修を終え、先週配属になったばかりなのだそうだ。純粋な瞳。彼女の優しく無邪気な笑顔には好感がもてた。
「お母様、私のことを久美ちゃん、久美ちゃんって呼ぶんですよ。私、里美っていうんですけどね。久美ちゃんって誰ですか?」
別に責めるような口調ではない。むしろ面白がっているように見える。
「昔、働いていた頃の同僚です」
俺が小学三年生の頃、母は父と離婚をした。生計を立てるため、ずっと専業主婦だった母は近所にある町工場で事務パートの職を得た。工員百名に満たない小さな会社だった。働き者の母は重宝されたようで、総務、人事、財務と様々な仕事を任されていた。そこで出会ったのが久美ちゃんだ。苗字は思い出せない。何度が家に遊びに来たことがある。よくしゃべる明るい女性で、いつもシュークリームを買って来てくれた。母は久美ちゃんを妹のように可愛がった。そういえば、楠木里美は久美ちゃんに雰囲気が似ている。
父がいなくなった我が家の生活は一変していた。父の収入で裕福な暮らしをしていた母と俺は下級市民に転落した。それでも何故か、母の表情は生き生きとしていた。仕事を始めて、社会と繋がることができた。そんな喜びを見出していたのかもしれない。
母はあの頃の楽しかった思い出のなかで生きている。
他愛のない会話のあと、里美の表情から微笑みが消えた。
「お母様の認知症が進んでいます」
指摘される前から分かっていた。
ベストケア三浦では、定期的に入所者の認知能力の状態を調べている。様々な設問が用意されているそうだが、最近では日付と曜日を答えられないことがあるそうで、季節を認識しているかどうかも怪しいと。それでも、いつも呆けているわけではないらしく、現実を正しく認知できる状態とそうでない状態とを行ったり来たりしているそうだ。
まあ、それもいいじゃないか。
厳しい現実などには気づかず、幻想でも美しい世界で過ごす。それはそれで幸せなことかもしれない。
「ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」と言って、頭を下げた。
母の後ろ姿をぼんやり眺める。
母は海が好きだった。事あるごとに海を見たがった。理由は分からない。
家族がまだバラバラになる前、毎年、夏休みになると父と母、俺の三人は海外に出かけた。この旅行こそが一年で最も大切なイベントで、毎年夏の到来が楽しみで仕方がなかった。
鮮明な印象となって記憶に残っている場所がある。そこがハワイだったか、グアムだったか、サイパンだったか、地名を思い出すことはできないが美しい風景だけは昨日のことのように脳裏に浮かぶ。
高級ホテルが密集する大通りから一歩奥に入ると、そこには美しい浜辺が続いている。たくさんの人がいる。手をつなぎ、スローモーションのようにゆっくりと歩く白人の夫婦。身体の大きさと同じくらいある大きくてカラフルな水鉄砲を抱えてはしゃぐ男の子。今ではまったく目にすることがなくなったデジタルカメラで記念写真を撮る若い女性グループ。皆がそれぞれの時間を過ごしている。知らない言葉に交じって聞こえてくる日本語たち。世界にはたくさんの日本人が住んでいるに違いない、と幼い俺は無邪気に考えた。そこで見た夕日の美しさ。この世のものとは思えない美しさだった。
旅行中、出歩くときはいつも父と二人だった。当時、父は、ヨーロッパの輸入家具を扱う会社を経営していた。英語とイタリア語が堪能で、家具の買いつけによく欧州各国を訪れており、旅慣れていた。旅先で外国語を話す父を誇らしいと感じていた。
一方の母はと言うと、ホテルの部屋のベランダや海辺に座って景色を眺めていることが多かった。いつもは活発でよくしゃべる母が海を見ているときだけは別人のように寡黙になった。いや、それは状況を正確に表現していない。眼を静かに閉じ、ゆっくりと呼吸する。週を待った右手は空を掴む。何かを得たその手はゆっくりと腹部に移動する。身体を空っぽにし、できた隙間に何者かを呼び込もうとしているように見えた。
瞑想。
そうだ、その姿は瞑想をしているようだった。
母にとって海とは何だったのか。
何を想い、海と対峙していたのか。
風が強くなってきた。遠くに船影が見える。あの船は一体どこに向かっているのだろう?
「母さん、寒くないか?」
「寒くないよ」と母が静かに答える。
「母さん、一つ聞いていいか? 母さんは―――」
母が、二つの相容れない価値観が混在したような複雑な表情をこちらに向けた。
「母さんは何で海を眺めるのが好きなんだ?」
母は再び前方の遥か遠くまで広がる海原に視線を戻す。
「聞こえるんだよ、海のささやきが。海はいろいろなことを教えてくれる。今も聞いてたんだよ」
とても呆けているとは思えない。しっかりとした落ち着いた口調だった。
母を部屋に送っていったあと、豪華なエントランスの片隅で楠木里美から母の状況について話を聞いた。近頃の母の心配事は例の通り魔事件のことだと言う。
「事件の第一報は日曜朝のテレビ番組の報道でした。テレビの画面を見詰めるお母様の顔からみるみるうちに血の気が引いていくのが分かりました。最初はお知り合いが被害に遭われたのではないかと思ったくらいです。どうされましたか、と聞くと、息子の職場が近かったから、とおっしゃいました。被害者の皆さんとは面識もないとのことでしたので、驚き方があまりに大袈裟すぎるように感じました」
確かに不思議だ。母には闇塾経営の話もしていないし、被害者がうちの保護者であることなど気づくはずもない。職場が近かったというだけで血の気が引くほど驚くだろうか。母はその後、ずっと俯いたまま午前中一杯全くしゃべらなかったそうだ。
「恐ろしい事件ですね」と里美が言った。その口調はあまりにも軽く、他人事のように聞こえた。
ちょっとお姉ちゃん、俺にとっては他人事じゃないんだよ。
俺の僅かばかりの憤慨を感じ取ったのか、空気を変えるかのように、ところで事件の続報をご覧になりましたか、と尋ねる。
「いいえ。今日は新聞を読む暇もなく家を飛び出してきたもので」
「犯人の名前が分かったみたいですよ。新聞にも出てました」
犯人の名前。心の底が疼いた。
「何て名前なんです?」
できるだけ平静を装いながら訪ねた。
「相神圭吾だそうです」
相神!
「お母様と同じ苗字ですね。何だかカッコいい名前だなと思って。あっ、済みません。不謹慎ですね」
里美は自らの失言にしきりに恐縮していたが、そんな彼女の様子はもうどうでもよかった。
相神圭吾。
あの男だ!
事件の中心に俺のスクールがあることは間違いないようだ。得体の知れない何かが、ぬめぬめと身体に纏わりつくような不快感を覚えた。
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